奇跡なんかじゃない

どうにも、「奇跡」という言葉を気軽に使うことにためらいがあります。

 

受験産業の中にいると、こういった言葉をよく耳にします。「奇跡の大逆転合格」や、「わが子を天才にするための~」といった表現ですね。ストーリーを伝えるときに、できるだけインパクトを残して気を引くために使われているのは分かっているのですが、「そんなに奇跡的かなぁ」なんて思うこともあります。

 

受験においてよく奇跡とされるのは、「初めは全く届かなかったレベルの学校に受かった」という出来事です。もちろん、達成できるなんて思わなかったことを達成したのだからそれは素晴らしいことです。でもそれを奇跡と呼ぶならば、「最後の最後まで全く届かないレベルだった」のに受けてみたら、「なんか受かっちゃった」というくらい、あり得ないもののはずです。しかし、このようなストーリーの主人公は必ずみんな努力して、最後には勝負できるレベルになっています。つまり、努力して、順当に受かるだけの力を付けています。そこをきちんと追わずに、もしくは簡略化や美化してしまい、「奇跡の大逆転合格」という言葉だけで済ましてしまうことに、そしてそこから伝わる「努力不在」感に、私は怖さを感じているのだと思います。

 

私が見てきた生徒の中にも、3ヵ月で偏差値を16上げた子や、オール1を取ってしまったけれど公立高校に合格した子、学校の先生から諦めるよう言われていた学校に合格した子など、そのストーリーを本や映画にしてあげたい子はいます。でもきっと、その題名に「奇跡の」という言葉は使えません。そういった子たちは、「順当」に努力をして、結果としてそれらの成果を得ました。奇跡でもなんでもなく、そのストーリーで描かれることは、本人が自分で身に付けた実力のことです。

 

奇跡を起こさないと本や映画の主人公にはなれませんが、順当に努力して順当に実力を付けて受験をする多くの生徒たちは、それぞれが生きる人生の主人公です。そこには本や映画と同じくドラマチックなできごとも大きな感情の波もあり、私はそれを自分の心に綴る人でありたいと思っています。