ただの転んだ話

自転車で転倒した。

一瞬が走馬灯のように


結論から言えば左の膝小僧の軽い打撲とカットバン2枚分くらいの擦り傷だけなのだが、自分でも信じられないくらいの転びっぷりだった。その時の様子を記録しておきたい。

 

ふと進行方向から視線を外したときにそれは起こった。再び視線を戻した瞬間、目の前に電柱が近づいてきたのだ。いや正しくは自分が電柱に近づいていったわけだが。

 

今日は風が強かった。容赦なく顔に当たるその風が、眼鏡と目の間にあるわずか5ミリほどのスキマに入り込み、そこで渦を巻く。その空気の渦が、私の眼球から水分を奪っていく。その現象が私に「運転中、長めに目を閉じさせる」という行為たらしめた。そう、この事故は地球規模で起きている大気活動によるものなのだ。人は自然を支配することなんてできない。ただただ自然の前に在るだけのちっぽけな存在だということが思い知らされた。しかし一方で、何がこうした出来事につながるか分からない、その因果律の深淵も覗いた気がする。バタフライエフェクト、風が吹けば桶屋が儲かる。風が吹けばどこかの塾講師が負傷した膝のことをブログに書く。

 

 

ここで事故の瞬間に話を戻す。実のところ近づいてきたのが電柱だけだったならば、まだギリギリかわせたと思う。自転車の運転歴半年の技術の蓄積を舐めてはいけない。そろそろ真打ちに昇進してもいいと言われていたくらいだ。しかしなんたる運命のいたずらか。その電柱には配電盤ボックスのようなものが括りつけられていた。そいつが道にせり出しており、逃れられない運命だった。私たちは出会うべくして出会ったのだ。

 

これから起こることに気づいてから衝突まで0.5秒ほど。その間スローモーション。かつて「ボクサーは相手のパンチが飛んできているときも目を閉じない」と聞いて驚いたことがある。人間の可能性は本当に無限大だと思う。訓練により「物が飛んできたときに目を閉じる」という反射現象を制御することができるのだ。だが私はボクサーとしての訓練は積んでいなかった。結果その刹那、目を閉じた。

 

ガシャーンという音をどこか遠くで聞いていたと思う。電柱にぶつかった私の自転車は、私を投げ出した。上着の胸ポケットからスマホが飛び出す。自転車の前かごからは先ほど買ったお茶や自転車のワイヤーロックが飛び出す。耳に装着していたイヤーマフが「お疲れ様!」と終業後の同僚よろしく耳を離れ飛んでいく。まるで亀をぶつけられたマリオカートのクッパのように、体中からいろいろなものを放出して倒れる私。そして私を無情にも投げ出した私の相棒は、アスファルトの固い道路にハンドルを叩きつけ、ベルが「チリン」と鳴った。惜しい。その警告音は、もう少し早く聞きたかった。

 

まず感じたのは左ひざに雷が落ちたかのような衝撃。おそらくアスファルトにしたたか打ち付けたのだろう。そしてそれを追いかけてくるかのように、徐々に猛烈な「羞恥心」に包まれた。いや恥ずかしい。メッチャ派手に転んだ。隣を走る車の列がみんな自分に注目しているように感じる。当然そんなわけはないのだけれど。しかしこういうときは焦ってはいけない。まずは状況の確認だ。うん、大丈夫。左足はまだ体にくっついてる。それならば、ここは恥ずかしい素振りを見せてはいけない。私は大人だ。あくまで大人らしく「転んだけど、別に動揺はしていませんことよ。」と周囲に知らせるべく貴婦人ばりに優雅に立ち上がらねば。

 

そうしてすまし顔を装い、わざとゆっくりとした動作で立ち上がり顔を上げると、横にあった美容院の中にいた人と目が合った。こちらをガン見してた。きっと世紀の瞬間でも目の当たりにしたのだろう。それに気づいた瞬間、私の貴婦人モードは瓦解した。さっきまでの優雅さはどこへやら。そこからはチャップリンの映画のような動きの速さで荷物を拾い集め、ダッシュでその場を走り去った。

 

そして今に至る。教室に入ってから打ったであろう左ひざを見てみると、立石寺に行ったときに転んだ所と全く同じところがなぞられたかのようにすりむけていた。でも大事には至らなかったのが幸いか。治療をしながら、「こういう時『恥ずかしさ』と『怪我の度合い』はどこで逆転するのか」について考えていた。もちろん、今日のところは恥ずかしさの完全勝利であったわけで、すぐさま文章にしてしまうくらい恥ずかしかったのだが。あーえらい目にあった。