生徒と部活動の話になった。
「もうすぐ学総だね」
と言うと、少し緊張した面持ちになり、「はい」と答える。どうやら大会でちゃんと勝てるかが心配の様子。すごいよね。強い部活動の子とかはこのプレッシャーと毎回戦ってるのだものね。私の中学生時代には無かったものなので、少しまぶしく見える。弛緩し切った環境で生きるよりも、こうした緊張感のある環境で生きるほうが今は羨ましく感じる。不思議なものだよね。
どんなものでも、上に登ってみないと分からない苦労ってのはあるんだろう。勉強も同じで、成績が上にいくほどプレッシャーも強くなる。そういう緊張感の中で戦っている子をたくさん見て来た。大変だろうなと思う反面、いいなあとも思う。だってそういう人のほうが応援してもらえるものね。
長いこと塾講師をやっていると、「先生が隣についてあげないと課題を進められない子」に出会うこともあった。今はいない。そういう子は来てもすぐに辞めちゃうからね。
塾の指導で学校の課題をやらせないといけないレベルの子。テスト期間でも提出物を自分で進めようともしない。そのせいで成績が下がるので仕方なく塾で手伝ってあげるため、「ワークを持っておいで」と伝えるのだが持って来ない。挙句の果てには悪びれもせずに「無くした」と言い放つ。当事者意識の希薄な生徒。
こういう生徒は課題をやらせようとしても自分で手を動かそうとしない。自習であっても講師が隣に座って見てあげていないといけない。昔働いていた塾ではこういう光景をかなり見た。塾講師のアルバイトをやりたいという大学生の多くはそれなりに高い志を持って職場の門を叩いてくれるものだが、やりたかったことはこんなことではなかっただろうにと申し訳なく思う。
ところでこういう生徒は、なぜ課題を自分で進められないのだろうか。その原因のひとつは、塾にもあると思っている。それは「課題を『手伝ってあげてしまう』から」ではないだろうか。
教えてもらったほうが自分で進めるよりも何倍も速いし完成のクオリティも高まる。そして何より「ラク」だ。一度それを知ってしまったら、次から自分で完成まで進めてみようなんて思わないだろう。自習中に隣で見ている講師だって、何も手を出さないでいるほと我慢強くはない。つい教えてしまう。それが生徒の自分でやらないに拍車をかけているのではないだろうか。
こう思うようになったのは、ウチにいるある生徒を見てからだ。その子の成績はそれほど高くない。自力でできない問題も多い。かつての自分で課題を進められない子たちとそれほど変わらない。でも、ここまで定期テスト前の課題は自力でやっている。先日も、
「もうワークとか進めちゃってもいいですか」
と質問に来た。提出物を自分で仕上げられるか否かは、学力ではないのだ。「自分の足で歩ける」力は環境次第で身に付くこともあれば、身に付かないこともある。どっちのほうが将来性が高いかは言うまでもないよね。
それまでにどんなに継続できていたことでも、間が空いてしまうと再開するのが億劫になる。
ほんのささいなこと、例えば「腹筋20回」くらいのことでも、何かのタイミングで少しやらない日ができてしまうと、次に再開するのが大変になるものだよね。まるで「2000回」になったかのような精神的負担に感じてしまう。それに負けて結局その習慣が終わってしまったり。もったいないよね。
だから何かを習慣化するには、できるだけ途切れさせないほうがいい。勉強なんてその最もたるものだと思う。毎日「絶対にできること」を必ずやるっていうのが上手くいくポイントだ。あとは、精神的負担を大きくし過ぎない。「ま。ちょっと間開いちゃったけどまた始めりゃいいっしょ」くらいの心持ちがあると「結局やめちゃう」という最悪の事態にはならない。
さて、私も明日からウォーキングを再開しようかな。結構サボっちゃったけど、気にしない。
「リアクション」
が、生徒の学力を見る良い指標になる。
何かを説明している時に、「はい」でも「うん」でもなんでもいいので反応がある子は力があるし、今後も伸びやすい。授業中に笑ったり感情を示すのもいい。その話を「聞いて咀嚼している」ということだからね。
一方、何の反応も示さない子もいる。目の前で自分に向けて話をされているのに、うんともすんとも言わない。ちょっと不気味に感じるので、
「反応が無いと、なんかゾンビに向けて授業している気分だな~」
とか言ってみると、急に反応が良くなったりする。きっと悪気はないのだ。
悪気はないかも知れないけれど、この習慣は学力向上にとってはよくない習慣だ。頭が働いておらず、ある意味ゾンビと同じだからね。気付くたびにいちいち指摘している。
小学校高学年くらいになって、音読が下手っぴな子は注意しなくてはいけない。
いわゆる「噛む」というやつではなくて「つっかえる」という場合ね。読みながら文脈がつかめていないはずだ。そしてその原因は語彙力にあると思う。単純に漢字の知識不足に加え、「やむを得ず」「初々しい」などの言葉を知らなかったりもするだろう。頭の中にその言葉がないから文章を読んでいて出てきたときに、どこまでが1単語なのか分からない。これがたどたどしさの原因だ。
文脈がつかめないということは内容が理解できていない。勉強は「読む」「書く」が基本なので、そういう子は自分で勉強することができなくなってしまう。問題集を解いて丸付けのあと、読むことができないと解説を読んで直しができない。したがって自分で自分を伸ばせない。
「ウチの子、問題を解いた後直しをまったくやらないのよねえ...」
とお嘆きの保護者の方は、もしかしたらこのあたりに原因があるかも知れないね。
あわや追突事故という目に遭った。
教室に向かう途中狭い道を通る。制限速度30キロの道路。そこに右手側から確認もせずに入ってきた車にぶつかりそうになった。タクシーだった。
急ブレーキを踏んで左にハンドルを切ってギリギリかわした。ひらひらり~。たぶん衝突まで30センチも無かったと思う。タクシーの運転手も確認不足で入ってきた自覚があったのだと思う。行くときハザードたいてた
。(車から降りてひとこと謝るとかはないのね)
でも、本当にびっくりしたときってクラクションとか鳴らせない。ただただ口をポカンと開けて心を落ち着かせるのがやっとだった。急ブレーキを踏んでいるとき、
「あ。ダメだわこれ。ぶつかる」
って思っていた。それどころか、「ぶつかったらまず警察に連絡だっけ。保険会社にも連絡かあ。授業遅れちゃうかも。あーメンドクサイなあ」くらいまで考えてた。たぶん1秒か2秒の間くらい。アドレナリンがドバドバ出て時間がゆっくりに感じた。
とりあえず事なきを得て良かった。タクシーの過失の割合によっちゃあ相手の仕事にも支障が出ちゃうだろうしね。私が超安全運転のスピードで走っていたことに感謝するのだな、ふははは。
「読書」のハードルについて思う。「結構高いんじゃないのかな」って。
「ウチの子、言っても全然本を読まないんです」
こう話される保護者の方は多い。もちろん読解力をつけるには読書はいい方法だし、本を読む子は国語だけじゃなくて全体的に学力が高くなる傾向にあると感じる。
でも、「本を読みなさい」で本を読むようになった子って見たことないんだよねえ。子供からしてみても「なんで?」ってなもんだと思う。小さいころから自分が読書をしている姿を見せ、「本って楽しいよ」ってことを伝えないとまずやらないよね。
子供にとっての「本を読みなさい」を大人に置き換えるとなんだろう。
「ショパンを弾きなさい」
とかかな?
「ほら、幻想即興曲でも革命のエチュードでもなんでもいいから、アナタの興味のあるものからでいいから」って言われてもねえ。ショパンなんて知らんし、そもそもピアノとかできんし、YOASOBIのほうがいいし、みたいな感じになるよね。
だからショパンを弾く前にそれを聴いてみることから始めるべきだし、実際に弾くとしてもまずは「ねこふんじゃった」からだよね。「読書しなさい」と言わなきゃならなくなる前に、児童書の読み聞かせをしてあげることからかな。
大人を試してくる子供って結構いる。「どこまで許されるかな」ってやつだね。大人が思っているよりも、子供って結構見ているものだよね。
もくせい塾では「成績の下がる」と思われる行為は気を付けてみている。例えば遅刻・課題忘れなどはやっちゃダメなの当たり前だよね。たぶんここを
「次は気を付けること。いいね?」
なんて言って終わらせると、
「コイツちょろいな」
ってなっちゃうんだろうね。本当はこの対応って、
「こちらはやることはやっているので、あとはやらなかったアナタに全責任がありますよ」
と言っているわけで、最も冷酷だと思うのだけれど。子供にこのことは伝わらないものなので、どんどんタガが外れていく。そして弛緩して堕落しきった学力の生徒になっていく。引いたラインを守らせるのは指導する大人の責任だと思う。
「『1海里』はおよそ1852m」
ってどうやって決まってるんだ?と思って調べた。恥ずかしながら知らなかった。中学校の教科書にも参考書にもこう書いてあるだけ。排他的経済水域も200海里で「およそ370km」とか。
どうやら、緯度1度の60分の1(1分)の地球表面上の距離がおよそ1852mということでこれを1海里としたらしい。なるほど~。地球の子午線上1周の距離は40,009km。40,009÷360÷60≒1.852(km)だ。
こうして調べると身に付きやすい。ちなみに地球の子午線上の1周と赤道上の1周の距離は違う。赤道上の距離のほうが長くて40,075km。自転している分縦方向につぶれている。これは高校地学の分野だ。こうして知識を広げていくと他の科目を横断することになるけれど、その瞬間もまた勉強の楽しさだね。
だいたい人は「自分の都合のいい方」に解釈すると思う。
例えば、
「このプリント、『やってもやらなくてもいいよ』」
と言ってプリントを生徒に渡すと、よっぽどやる気のある生徒しかやることはない。だいたいの子にとっては「やらなくていいよ」なんだよね。やる気のある子をあぶりだすのにはいいのかも知れないけれど、全員にやらせたいのならばこんな言い方ではダメだろう。
生徒だけでなく、保護者の方にもある。昔、ある保護者の方から
「小学校の先生に、面談で『提出物を出していない』って言われたんですけど!」
と、かなりお怒りのご様子で話しをされたことがある。きっと
「塾に通わせれば学校の提出物の管理もしてくれる」
と思われていたのだろう。私は入塾時もその後の面談でもそのようなことは一度も話したことは無い。そもそも塾の人間が「学校の提出物の管理」ってどのようにやればいいのだろう。
ただこれは、言われた側の意見であって塾としては説明責任もある。十分に説明し切れていなかったと言えば確かにそうなんだろう。都合のいいほうの解釈が残らないようにきちんと伝えていかないとね。
筋トレやダイエットみたいな自分に向けた努力って、他者とか他の要素が無い分成果が出やすいし分かりやすい。やれば結果に出るしサボればこれもまた結果に出る。
勉強も同じで成果が出やすく分かりやすい。やれば結果に出るしサボればこれもまた結果に出るよね。そんでちょっと下世話な話、ダイエットとかよりも将来のお金につながりやすい。もう時代は変わってきているとは思うけれど、私自身、就職活動で「大学名ってこんなに重視されるんだ!?」って驚いた記憶がある。
そしてなにより、やがてこれ自体が生きがいになってくる人もいたりする。成果が出やすくてお金も稼げて趣味にも生きがいにもなっちゃう。こんなにいい投資先って他にないよね。
相変わらずメールフォームから営業のDMが送られてくる。そしてそれを見ては、丁寧に「営業のDMは遠慮してね」とメールを返している。
いや、別にこっちもヒマなわけじゃないよ?塾生保護者の方も使うものなので、届いたものはきちんと目を通す必要があるのだ。
今日来たDMなんか
「お世話になります」
から始まっていて、塾生保護者の方だと勘違いしてしまった。そういう手法だったらすごいよね。それともただメールの定型文を何も考えずに使っているだけ?送って来た人はまだ経験の浅い若い人だったのかなあなんて想像したり。
時間にして数秒くらいなんだけど、自分のことを考えてもらえるってことは、DMも無駄じゃないのかも知れないよね。ってなにそっち側に立って発言してんだって話だよね。迷惑なもんは迷惑。
生徒がたまに、「変な」質問をしてくることがある。
「北辰のかこもんをやりたいのですが、北辰の日までに全部提出できないかも知れないけとやってもいいですか」
とか。これ、私が「YES/NO」を下す質問じゃないよね。
こういう時は頭を働かせる。
「たぶんこの子が気にしているのは、『私が採点する』という手間をかけるのに全部出し切れないことを申し訳なく思っているんだな」
って。それでそのことをズバリ聞いてみると、「…そうです」と。
んまあ~なんといじらしい。そうぜん「そんなの気にせずできる範囲でどんどんやっていいよ」だよね。そういう気遣いができるのは素晴らしいことだし頑張るのを応援したくなっちゃうけど、若いうちはそんなこと気にせずもっとずうずうしいくらいでいいよ。
教室で生徒が動画視聴をする用のタブレットなんだけど、
「先生、タブレットが壊れてます」
との報告があり見てみると、内側からものすごい力で押し開けられてる。
横から見るとこんな感じ。バッテリーが膨らんでるみたい。
生徒に教えてもらって良かった。気付かずにこの土日電源差したまま放って置いたら発火してたかも知れない。
それにしても2年くらいは普通に使えていたのだけれど、急にこんなことってあるんだねえ。
生徒指導をはじめてもう結構経つけれど、そうしているうちに「パターン」みたいなものが見えてくるようになった。
成績の上がるパターンや、逆に成績の下がるパターン。上手くいくパターンやその逆も。主に指導や生徒の勉強に関してのことなんだけれど、一歩踏み込んで親子の関係というか、親が子供の勉強にどう関わるといいのかというのも少しだけ見えてしまう。もちろんこれが絶対に正解というわけじゃないだろうけれど。
だから、そういうことを言葉にして伝えていくことも仕事だと思っている。「こっちには甘い蜜があるよ」とか「そっちに行くと崖だよ」とか。余計なお世話かも知れないけれど、私の経験して得たパターンは、その子やそのご家庭にとってははじめてのことかも知れないからね。知っているなら教えてあげたいよね。どうせなら関わった人みんなで幸せになりたいじゃん?
生徒の指導を始める時、「どこまでできているかな」をまず見るようにしている。
今学校で進んでいるところ、前回の定期テストの範囲、前学年の内容...。遡って遡って、数学の指導ならば分数・小数や四則計算の仕方まで戻ることもあるし、英語ならばアルファベットまで戻る。生徒が今、「どこに立っているのか」を知ることは指導をするにあたりとても大切だ。じゃないと生徒を置いてけぼりにしちゃうかも知れないからね。
これを重々分かったつもりでいたのだが、今回ひとつ大失敗してしまった。生徒ではなく生徒の保護者の方に対してだけど。
入塾の面談に来られた保護者の方に、「途中からスタート」な感じで説明を始めてしまったのだ。その方はそもそも「塾に来ること」自体がはじめての体験だったようだ。
「他の塾ってどんな感じですか?」
と聞かれてしまった...。その方に、他との違いを説明しても「ワケわかんない」よね。時間を無駄にさせてしまったかも知れない。大変申し訳ないことをしてしまった。
もっと丁寧な説明を。自戒だ自戒。
「担任制」を謳う個別指導塾でも、講師の欠席等で担当の先生が変わることはよくある話。これの決定的な弱点は「引継ぎが甘く」なることだ。
どんなにメモを残して引き継ぎをしたところで、生徒の間違いの細かいクセや前回指導のやり残したちょっとしたところなどは伝えきれない。なので担任といったらずっと同じ人間がやったほうが絶対にいい。前回間違えた1問でちょっと気がかりな所から確認することができるからね。指導の連続性の強みだ。
前回と今回でできるようになったこと、また忘れてできなくなってしまったこと。そういったことをきちんと把握していくことが生徒の成長を促す。
令和7年度埼玉県立高校入試の学力検査の「基本方針」と「学校選択問題実施校」が出ている。
どちらも去年と変わらないみたい。今まで通りの対策を行っていけば十分対応できるだろう。学校選択問題採用校も変わらず、越谷市内でいうと越谷北と越ヶ谷高校だね。
受験生としてもう動き出している子も多いと思うけれど、これから夏に向けて勉強のペースを上げられるようにがんばっていってほしい。
生徒には学校の定期テストや通知表が出たら塾に持ってくるようお願いしている。
が、何度伝えてもできない子がいるんだよねえ。1年に一人くらいかな。成績が悪くて「わざと見せない」っていうこともあるかも知れない。でも、それならそれでいいんだ。見せにくいっていう気持ちも理解できるからね。(でも見せてもらわないと困っちゃうんだけど)
問題なのはこのお願いを「聞き流してしまって」いる生徒。これはマズい。こういう子は授業もきちんと聞けていないはず。そうすると成績が下がっていってしまう。また、自分の成績に関心が低いことも学力向上を妨げる。
これを直すには「何度も言って聞かせて」はダメだと思う。それだと意識が高くならないからね。私も2回くらいは言うけれど、それでもダメならばもう言わない。学力を伸ばすために一生懸命指導している人間が、その子の成績を教えてもらえていない。このことを保護者の方はどう思っているのだろうな、とは思うけれど。
長い時間勉強を続ける「勉強体力」を付けるにはどうするか。
経験しないと身に付かないのでまずは「やること」。なんだけれど、やりかたにも工夫があったほうがいいよね。私がおススメしているのは、
「1日3科目」
の勉強だ。だいたい中学生や高校生が塾に自習に来て勉強できるのは、長くて平日で4時間くらい。それを3科目で割ると1時間ちょっとで、ちょうど集中してやり切れるサイズだと思う。どんなに頑張っても人なので集中の持続時間にも限界がある。一般的には90分とか言われるけれど、まずは60分を目指すくらいからだろう。はじめはほんと、10分とかでいいと思う。
「疲れてきたなー」
と感じた時が集中力の切れたサインだ。ちょっと席を立ったりして休憩して、科目をチェンジする。それを繰り返していくうちにいつの間にか勉強時間は伸びていく。切り替えが大切なんだね。あと、休憩する時間から決めてしまうことと、やることを先に全部書き出してしまうことも有効だ。マンネリしないように工夫をしつつ勉強時間を伸ばしてほしい。学力は、まず「量」なんだから。
とはいえ、質問をする子が伸びるのも事実。過去に見てきたどの子も質問の頻度に比例して学力が伸びている。「質問をする」というのが強力なスキルなのは明らかなんだよね。
なので授業内では質問はあるかどうかはこまめに確認する。自分で考える余地を与えて、疑問点を出す練習だ。高校生くらいになると、質問の部分に付箋を貼って授業を受けてくれたりしているので、一定の効果はあると思う。中学生はまだそこまでじゃないけれど、まずは
「分からないことを聞くのは恥ずかしいことじゃない」
と知ってもらうことからだよね。
ただし、こちらから「お迎え」に行き過ぎてしまうと、「聞かれないと質問できない子」になってしまうので良くない。質問はあくまで能動的な行為でなくてはならない。それが伸びる質問の仕方だ。
質問できる・できないってのはそれまでに育ってきた環境がかなり大きな影響を及ぼしていると感じる。塾に通い出したからっていきなりできるようになるものではない。だから
「なんでしないの?質問しなさいよ」
と、言葉だけで片づけるのではなく、質問できる子にしていくための具体的な指導ってのが必要なんだと思う。
昨日は夕方くらいに自習に来た中学生の子が、結局最後まで残って自習をしていた。
最後私が授業を終えて戻ってくるとまだいて、
「今日は最後まで残ってたんだね」
と言うと、質問を持ってきた。もしかしたら質問をするためにそこまでいたのかも知れない。だとしたらすごいよね。以前は全く質問に来たりすることも無かった。小テストも分からないところはそのままで不合格になったりしていた。それで私に
「準備している時に分からないところが出たら聞きに来なさい」
と言われていたのにね。すごい成長だと思う。
卓球というスポーツを表現するときに
「チェスをしながら100m走をするような競技」
と言うそうだ。速筋を全開にして体を動かしながら、頭では相手の先の先を緻密に読むということなのだろう、なるほど~。
でも実際にチェスをしながら100m走をすることはできないと思う。普通に100m走ったほうが速いよね。あくまでこれは、卓球がそれだけ高度であるというたとえだ。
これと同じで、勉強をしながら何か他のことを同時にやることはまずできない。テレビを見ながらはもちろんのこと、音楽を聴きながらだって無理だろう。そっちに注意がいっちゃう。(環境音とか、自分に興味のない音楽ならばOKだろうけれど、あえてそれを流して勉強する人はいないよね)
だからスマホが手に取れる場所にあるなんてのは、「勉強はしてません」って言っているようなものだと思うんだよね。だったらそんな状態でダラダラやるより、勉強するときはスマホが近くにない状態で集中して行って、少し早く切り上げてスマホタイムを設けたほうがいいと思う。
また、大人と子供の考える「質問に行く」は重要度が違う。
大人の「質問に行く」は、職場などで分からないことがあったときに先輩や上司に尋ねるようなものだろうけれど、子供の場合はもっとずっと優先度の低いものだ。
大人の場合、分からないものをそのままにしておくと自分のミスで責任問題に発展することもあるけれど、子供の場合はそこまでではない。(と、感じている子が多いと思う)だから質問に行くのは「あとまわし」になる。
だから大人の基準で「なんで質問しないの!」と親に詰め寄られるうちに
「怒られそうで質問がしにくい」
とか
「先生が忙しそうで質問がしにくい」
みたいな他責思考の言い逃れを子供はし出す。そうすると親も子供のせいにできなくなるので何も言えなくなってしまう。責任をなすりつけられてコッチもまいっちんぐの、誰も得しないパターンになるのよ。
だから保護者の方は、お子さんに「質問に行きなさい」と言う時、
「そもそも子供にとって質問するのはハードルが高くておまけに優先度の低い作業なんだ」
ということを念頭に置いておいていただきたい。
漢字でも英単語でも社会の用語でもいいのだけれど、
「1度に100個」
というのが暗記における「成績の上がる」学習量だと思っている。これより少ないとちょっと心許ない。全く根拠はないのだけれど、今まで生徒を見てきて感じること。
近隣の小学校では漢字の「50問テスト」なるものがあるみたい。合格基準があって不合格になると再テストもあるとか。公立の小学校のレベルで「50個の漢字を全て覚えなさい」が基準なわけだね。
また近隣の中学校の小テストは100問の用語暗記テストらしい。これで生徒の成績に差が付くってことは、100問をこなせるようになるのが成績アップに必要な暗記量のラインなんじゃないかなあなんて思うんだよね。
一般受験で大学を受験する子たちの中には、
「英単語帳1周」
とか
「世界史1問1答1周」
とかのテストを毎回の授業で行っていた猛者もいたよ。出題するコッチがもうヘロヘロになっちゃうのさ。
近隣の中学校の体育祭も終わり、5月のイベントごとはひと段落ついたかな。
しかし6月に入ると学総があって、東部地区テスト、北辰テストと続き、あれよあれよと1学期期末テストがやってくる。来週には期末テスト1ヵ月前だ。
そんなわけで6月の前半はなかなか腰を落ち着けられないことを想定して、今週来週でキリのいいところまでやっておこうという作戦で授業を進めている。英語は中2は不定詞、中3は関係代名詞まではやっておき、数学は中2は連立方程式、中3は平方根まで終わらせちゃうつもり。(中1はまだ授業についてくるのがやっとの子もいるので個々人で違うけれど)そんでもって6月に入ったら一切の授業をストップして期末テスト対策に突入だ。
部活動の大会が明日あるって子が、新しいところを今日しっかり身に付けていくってなかなか難しいよね。特に今年は部活動に力を入れている子も多いみたいだからね。学総が終わったあと、テスト間近になって「あれ、これって何でしたっけ?」なんてならないように、もうやることは早く終わらせちゃおう。
またまた体調不良者が続出しているね。いやはや。
自習に来ている子の中にもゴホゴホしている子がいたりして、飴ちゃんをあげたりしているのだけれど、自習は頑張ってくるけど授業で休んじゃうなんてことになったりしている。残念だ。
気温が上がってきたからなのか、学校行事が立て込んでいるからなのか、はたまたゴールデンウィークの疲れが出てきているのか。いずれにせよ体調管理には気を付けていこう。
今は高校生たちが、ちょうど中間テスト真っ最中だ。
もくせい塾で高校生受験を経験した生徒がそのまま高等部を続けると、テスト前だからといって私のやることが増えたりすることは無い。むしろ減る。
「何か手伝えることはある?」
「いえ大丈夫です」
みたいな。
普段から自学を進め、その自学の中に塾の授業があるという状態になっているので「テスト対策を!」みたいなことは必要ない。むしろそういうのに余計な時間を割くより自分の勉強を突き詰める方がいいって分かっているんだね。これで学年上位10%以内とか20%以内とかに余裕で入ってくる。もちろん分からないところはそれ以前に解決済みだし、教科書の内容のチェックなどは行ってはいるけれど。
やはり自学の基礎は中学の時に身に付けておくことが大切だ。高校生になると勉強する科目数・量が劇的に増えるから、どうしても自分でやらなくてはいけなくなる。中学の時にお神輿に乗せてもらって高校の門をくぐっちゃった子は結構キツいよね。
先の記事で、「先生に質問に行ける子は全体の5%くらいかも」という内容を書いた。
では、なぜそんなに少ないのか。まず、疑問が浮かんだその瞬間に質問の為に席を立つには、並外れて強い行動力が必要だからだ。多くの子が、何か不明なことにぶつかっても「ま、いっか」とか「あとで聞こう」と後回しにしているうちにその疑問自体を忘れてしまう。そこをすぐに席を立って職員室や、教卓にいる先生の元まて行けるというのはある意味才能だと思う。
「なんで質問しないのよ?質問なんて簡単でしょ、分からないことを聞きに行けばいいだけなんだから」
と保護者の方はおっしゃるかも知れない。確かにそうなんだけど、そのちょっとした疑問点やできなかった1問を質問に行ってまで理解したいという強い動機を持ち合わせている子はそれほど多くない。その証拠に、同じ子でも受験学年になると質問にくる割合は高くなる。行動は考え方から生まれ、考え方は状況によって変わる。
英語の指導をしていて思うのは、「順番って大切」ってことだ。
生徒が単語を読んだり書いたりできるようになってから文法の学習をしたほうが伸びる。逆に、単語をしっかり覚えて書けるようになる前に文法を進めてしまうとある弊害が生まれてしまう。それは何か。
「単語暗記に対する意識の低下」だ。
英語の問題集っていろいろなタイプの問題が並んでいるけれど、「自分の単語力」が無いと全く取り組めない問題って自由英作文くらいなんだよね。他は単語がすでに載っていたりするのでそれをなんとなく並べたりして解いた「気」になれてしまう。
そうするとなまじ文法なんて齧ってるもんだから「自分はできるぞ」なんて勘違いして、ますます面倒臭い単語暗記なんてやらなくなるよね。英会話に通っていた子が中学に入って英語の成績がイマイチになるのってこういうところもあるのかしら。
まずは単語を書いてしっかり暗記し書けるようになる。それから文法などの学習を進めるという手順を踏んだほうが中学で行う英語の学習はスムーズにいくような気がする。
最近思ったのだけれど、
「分からないところを先生に質問する」
って、結構難しい作業なのではないだろうか。保護者の方からちょこちょこ「ウチの子質問に行ってますか?」と言われて思った。
なぜかというと、今まで塾に関わってきて、自分で質問に行ける子って全体の5%くらいだったからだ。昔の職場でも、他の講師に質問している子なんかを思い出すと、いつも同じメンバーだった。
私自身の学生時代を振り返っても、塾で分からないところを教えてもらいに行ったのって3年間で2回だけだ。学校ではゼロだった(すでに分かっているところを質問に行っていたことはあるけどこれは別の話)。
「分からないところを聞きに行く」ってなかなかできない。そんなものかも知れない。
I like English.
この英文を日本語に訳してもらうと、
「私は英語が好き。」
と書く生徒が少なくない。「好きです」の「です」が付いていない。他にも日本語を書かせると、「助詞や助動詞」が抜けていることが本当に多くなったと感じる。
「オレ オマエ トモダチ」
これじゃあ森に住む心優しきモンスターだよね。普段「単語」で会話しちゃっているのだと思う。こういう子は国語の学力も芳しくない。付属語に対する意識は主語や目的語など文構造にも影響する。ぜひお家でも文章によう会話をしてあげてほしい。
「勉強の『やり方』が分からないみたいで」
とは、面談した時に保護者の方がよくおっしゃる言葉。そこで勉強のやり方について書いてみたい。
「一度決めたことをやり抜く」
これだと思う。これだけ。でも絶対にやり抜くことだよね。勉強は、といよりなんでもそうだろうけれど、多くの人が途中でやらなくなっちゃうことで脱落していく気がする。受験業界にも「諦めた人から脱落していく」という言葉がある。だから最後までやっていた人ができるようになるよ、絶対に。
受験みたいな大きな話だけじゃなくって、日常学習でも当てはまると思う。巷にある勉強法、「7回読み」でも「青ペン」でもなんでもいいんだけど、今も続けている人っている?いたらきっと効果出てるよね。みんな続かないんだ。だから、絶対にできるっていうレベルのことを絶対にやめないで続けることだと思う。1日英単語5個覚えるみたいなことからがいいんじゃないかな。3ヵ月続けたら1500個って、ちょっとスゴイと思うんだけどな。
私だけではないと思うのだけれど、塾講師の頭の中ではテスト1週間前くらいにはもうそのテスト(準備)の「反省会」が行われていたりする。
「あー、今回は○○君の自習時間を増やさせることができなかったな」
とか、
「問題演習は十分にできたけれど、暗記のチェックがイマイチだったな」
とか。なんならそこから次のテストのことまで考えていたりする。
もちろんテスト前日の業務終了時間ギリギリまで生徒には頑張ってほしいしそれを応援しているのだけれど、1週間前くらいには生徒の結果ってある程度見えてしまっているからね。それよりも前の段階で塾講師の勝負は行われているのだ。
中学生たちの中間テストが終わって1週間が経った。そろそろ答案が返却されている頃だと思うので、返却されたら塾に持って来てほしい。
ところで、定期テストはそれまでの授業の確認テストだ。なのでできなかったところは絶対に復習しておかなくてはならない。そうしないと積み残しが出てきてしまって学力が先細りしてしまうからね。
学校でも解説をしてくれる場合もあるけれど、それを聞くだけでは不十分なので自分でも作業をしよう。とは言っても無駄なやりかたをする時間もない。なのでテスト直しはこう考えてほしい。
「次に同じ問題を解いたら絶対に満点取れるようにする」
間違えた問題を解き直すのはもちろんのこと、忘れていた・身に付いていない知識は覚える。そのうえで教科書やワークで該当箇所を見て知識を広げておければ成績が伸びていく子のパターンだ。その際「人に説明する」つもりで。テスト直しで学力を伸ばせる子は強くなる。
最近生徒の「教科書忘れ」が多い。
テストで必要だから持ってくるように伝えてあるのだけれど学校に忘れちゃうみたいなんだよね。学校行事が多い時期だからかな。そうだと思いたい。
それにしても、忘れる子はいつも決まったメンバーなのも気がかりだ。持ってくる子は必ず持ってくるのにね。もしかしたら、「忘れても塾で借りられる」って思っちゃってるのかな。忘れたことを言うときにあんまり悪びれた感じでもないんだよな、私が叱らないからかな。
塾の教科書を捨てようかと本気で考えている(でも私も使うんだよなあ)。道具は自分のものを使わないと、本当に学力伸びなくなっちゃうよ?
人は環境に適応できるもんなんだなあ。
入塾してはじめの頃は、塾の小テストに不合格しまくっていた子が、少しずつ合格できるようになっていき、やがて合格するのが当たり前になってきた。はじめは大変だったろうけれど、だんだん慣れてついてこられるようになってきたんだね。
だからはじめから生徒に合わせてレベルを下げた指導なんかしちゃダメだよね。それじゃあ何も変わらない。生徒のほうから合わせていくような環境を用意してあげないとね。それが生徒を信じるってことでしょう。
富士中はもう終わったけれど、次の日曜日が体育祭の中学校も多いみたいだね。今のところ天気は曇り。無事行われるといいね。
体育祭から組体操が無くなって久しいけれど、私の頃はまだあった。ピラミッドだって5段だった。私は一番下の土台役。上に乗る人たちの体重を受けながら校庭の砂利が膝に食い込むの痛かったなあ。でも「痛いのを我慢」になんだか妙な誇らしさを感じていたんだけれど、アレはなんだったんだろう。「男らしさ」への憧れみたいなものだったのかしら。ちょっと恥ずかしい思春期の話。
富士中の子たちの中には、体育祭の前後でちょっと体調を崩しちゃった子もいるので、是非体調管理に気を付けて良い思い出にしてほしい。
説明でもアドバイスでも、生徒が「聞けているか」をよく見ている。
話をしていて、生徒が話を聞けているかどうかは生徒の表情や体の動きを見ていると結構分かるものだ。だから話を聞けているときはそのまま話を続けるし、聞けていないときは早目に切り上げる。ダラダラ意味のない話を続けても仕方がないからね。
勉強内容を説明しているときに「聞けていないぞ」となって話を切り上げた時は、とりあえず問題演習をさせてみる。それでできなくて質問に来たり、丸付けでバツを食らったりすると、そこで話を聞ける姿勢が整ったりするからね。アドバイスをしている時に「聞けてないぞ」となった時は...まあ仕方ないよね。タイミングじゃなかったってことで。
漢字や英単語などの暗記ができない生徒は、大きく2つのパターンに分けられる。
ひとつは能力的なもの。暗記作業への慣れや習熟度がまだ無い小学生くらいまでの子や、何か医学的な名前が付くような子。こういう子はやっていけばやがてできるようになるので特に問題ない。
問題なのがもうひとつのほうで、その能力があるのに暗記作業を避けようとする子。塾の指導の現場ではこちらのほうが大変で、何かと理由をつけてやらないほうへ誘導しようとする。それまでの人生はそれでなんとかなってきてしまっていたのだろうね。これをちゃんとやるようにしていくには、考え方を変えさせる必要があって、かなり根が深い問題だと思う。
今日は小学校の社会科見学の日だったようだ。どこに行ったんだろう、あとで聞こうっと。
子供の頃は社会科見学で行った先にもあまり興味が持てなかったけれど、大人になると興味が湧いてくるから不思議だ。実はゴールデンウィーク中には、群馬のこんにゃくパークで工場見学をしていた。といっても、工場もゴールデンウィーク中だったみたいで稼働していなかったけれど。設備が動いているところを見たかった。
工場の「緑色の床」にテンションが上がってしまうのは、昔工場に勤務していた人間の性なのだと思う。
中3の第1回北辰テストが返却されたので、その結果をもとに生徒と面談をしている。
成績表の結果から、復習が必要な科目・範囲を洗い出して、その具体的な勉強の指示を出す。だいたい塾で指導を受けていない科目なんだよね。受験は5科目勝負なので、塾での指導科目だけが良ければそれでいいってわけじゃない。みんなもうちょっと自学してくれよな!
今大事なのは、とにかく基礎を固めること。夏休みに入る前までに、ある程度の基礎力は身に付けておいてほしい。
受験が近づくと、「焦り出す」子が出てくる。いや受験生はみんな焦るものなのだけれど、変に焦ってばかりで浮足立ってしまうというか、焦ってしまってそのせいで上手くいかなくなってしまう生徒というのがいる。
この仕事をしていると思い出す生徒がいる。別の塾で塾長をしていたときに通っていた女の子。成績は真ん中くらいで、別に悪いわけじゃなかったんだけれど、志望校には1ランク分くらい通知表も偏差値も足りなかった。
それで夏が終わって秋が過ぎた頃から焦り出しちゃって、担当の先生とギクシャクし出してしまった。担当の先生が嫌いってわけじゃなかったんだろうけれど、その先生の勉強のアドバイスが「刺さらない」感じだったんだよね。私は直接指導していたわけじゃなかったけれど、見ていてもう少し具体的なサポートが欲しいのかなって感じだった。
それでどうなったかと言うと、11月頃になってお友達の通っている別の塾にも通い出した。塾の併用だ。そして結局、志望校を1ランク下げて受験し、合格した。
結果だけを見たら別の塾を併用する必要もなかっただろうし、親御さんにはお金をたくさん使わせることになってしまった。これは生徒の不安を解消できなかった我が塾の責任だと思う。私も担当の先生との関係を見ているだけでなく具体的に手を差し伸べるべきだったよね。なんだかいろいろ反省する点があって、今でも思い出すのだと思う。自分の指導の根幹をなす思い出のひとつ。勉強の不安は勉強でしか解決できないことを教えなくてはいけない。
春から初夏にかけて、この時期の数学は計算問題が中心になる。中学生は1年生が正負の数、2年生は文字式、3年生は式の展開・因数分解など。高校生も1年生は式の計算だよね。
だから塾での指導も普通に進めようとするとつい単調になりがちだ。もちろん計算は全ての土台だし、きちんと習熟するまで200問は類題を解いたほうがいいとは思うけれど、「もうできている」子に同じような基礎問を解かせていてもね、ってなる。
だからそんな子にはちょっと難し目の問題を出したりして変化をつけたりする。中学生には高校受験、特に私立高校の過去問から問題を引っ張ってきたりすると生徒の目の色が変わったりする。
そのあたりの見極めは気を付けて行わなければいけないのだけれど、できるだけ幅広いレベルの問題に触れておくことで、数学の思考力を養っていってもらいたいなと思う。
中2の数学は連立方程式に入った。
計算問題は順調のようだ。加減法も代入法もできている。この前に習う式の変形が土台になるので、その練習をしっかりやった成果だと思う。ことあるごとに途中式の重要性を問うことになっているけれど、基礎をバカにしてはいけない。学力のほころびはこういうところから起こるのだ。
期末テスト1ヵ月前には全範囲終えてしまって復習に入れるようにしていきたい。式の証明も今のところできているけれど、テストまでに30本は書きたいからね。さあ進んでいこう。
ある生徒。中間テストが終わった後、塾の小テストの準備が不十分でやってきた。そのことが発覚した話。
一見すると、ワークもやってあったし、「ちゃんとできてますよ」みたいな雰囲気だった。しかしワークの途中式が無かったりして、「おや?」とは思った。そこで、「これ、途中式がないけどどうやったん?」と聞いてみると、
「別の紙にやりました」
と。まあ別の紙にやって答えだけワークに写すなんて面倒なことするわけないので、答えを写したのはすぐに分かるんだけどね。そしてテストをして不合格。そこでもう一度聞いてみると「準備不足」を認めた。
やはり生徒の学力向上において、テストはかなり有効な手段だ。もしもテストがなくワークだけの課題だったら、本人は決して認めなかっただろう。「ちゃんと結果を出してあげる」っていうのは、本人が自分の行動を振り返ることにも役立つ。自分ではちゃんとやったつもりになったまま進んじゃってることって結構多いんじゃないかな。宿題だけでテストの無い塾って、どうやって成績伸ばしてるんだろうね。
今回は定期テスト直後で準備する時間も無かっただろうし、特に叱ったりする案件ではないので、
「挽回がんばりや~」
で終わったのだけれど、テストをすることで曖昧にさせないというのは大切なことだと改めて思った。
中学生(や高校生)を見ていて、「分数に対する練度が足りない」と感じることがある。いつくらいからそう感じることが多くなっただろう、学習指導要綱が変わって学習量が増えた頃かな?
分数は小学校で習うけれど、その演習の時間が十分に取れていないのと、やっぱり国語の力によるものが大きいのかな、と思っている。
分数の力が弱い子のパターンとして、「分子から書いてしまう」というのがある。「〇分の△」という読み方の通り、分母から書くべきなのだけれど。分子から書いていると、読み方と数字に結び付きがなくなって計算方法を忘れてしまったりする。だから見つけるたびに指摘して直させている。
数字だって「字」。ことばなんだよね。そこに対する意識が高い子のほうが数学の力も伸びやすい。
この時期だから仕方ないのかも知れないけれど、相変わらず営業の連絡が多い。
電話は留守電にしてしまっているのだが、最近はこのサイトのメールフォームからの営業メールが本当に増えた。以前「DMお断り」という内容の記事を書いたけれどやっぱり全く効果はなかった。こういうことをしてくる業者は、ウチの記事なんて見てすらいないのだろう。「塾」とかで検索してヒットしたところに手あたり次第DMを送っているか、連絡先を集めている業者から名簿を買って連絡してきているのだろう。
そこで送ってこられたメールに対して、きちんとお断りのメールを返信するようにした。「こちらはちゃんと見てますよ」と。内容はコピペだけれど、見たうえで対応しているのだからちゃんと意を汲んでいただけるとありがたい。
先程まで高校生と英単語の再テストを行っていた。できればもっと早く来て、営業時間内に受けてほしいのだけれど。
授業で毎回行う英単語帳のテスト。それに不合格だったので再テストと相成ったわけだけれど、先日久々にキレたんだよね。だって正答率半分にも満たなかったから。明らかに直前にちょっと見てきただけ。その、「いいやこれで」という姿勢に対して火がついてしまった。
たぶん今までずっとそうやってきたんだと思う。妥協して楽して、その結果「できない」というくくりに入れられてしまうことへの諦め。そりゃあ低い場所に居るのは楽なんだよ、そうすれば誰も期待をかけてこないから。今まで周りにいた他人の大人はみんなそう扱ってきたのだろう。
でもそのままでいいのか。「また今回もダメだったか...」と思われていいのか。そういう思いを込めてぶつかった。最近はこうされると辞めちゃう子も多いよ?でも、なあなあのままでお金をもらうためだけのご機嫌取りなんて嫌だからね。せいぜい私にできるのはこれくらいだし、私は全部出し切らないと諦めもつかない。
結果、今日合格していった。この生徒への期待はまだまだ続いちゃうよね。
中3の第1回北辰テストが返却された。今回からPDFファイルで来るようになったので便利だ。
今回は中2の第2回の結果とほとんど変わらなかった。塾の平均偏差値も、生徒の個人成績も。受けたメンバーもほぼ同じだったので、これが今の生徒たちの実力と見ることができるかな。
どの子に対しても言えることだけれど、塾で受講している科目は割と取れている。問題はそうじゃない科目。もっと勉強せい。大事なのは結果を受けた後の動きだ。これをもとに受験勉強をしていってもらいたい。
先日群馬県に行った時に、「ニホントカゲ」を見かけた。妙義山にある妙義神社までの石段にいた。石段を登ってきて、石段と石段の間の隙間に入っていった。なんとか収めた写真がコレ。
関東平野の中に暮らしている人だと、ニホントカゲじゃなくて「ニホンカナヘビ」が最もなじみ深い爬虫類じゃないだろうか(あ。ミドリガメは除く、ね)。ここ越谷市でも初夏になるとよく見かける。両者の見た目の違いは、体と尻尾の比率。ニホントカゲは1:1くらいだけれど、ニホンカナヘビは1:2くらいで尻尾が長い。この尻尾の長さで「愛蛇」、カナヘビと名付けられたそうな。
他にも体表の鱗の光沢。ニホントカゲには光沢があるがニホンカナヘビはマットな仕上がりになる。またニホントカゲの幼体は尻尾のあたりがキレイな青色をしているんだよね。
どちらも日本の固有種だけれど、ニホントカゲはあまり立体的な移動が得意じゃないので、人間による開発がすすむと生息圏を広げられれない。なので野生のニホントカゲに出会ってちょっとだけ嬉しかった。
高校生の中間テストまで残り1週間くらいだ。順調に勉強できてる子もいるなか、ちょっと戸惑っている子もいるみたいだね。
やることがハッキリしているほど人は動きやすい。「これをこうして...」と指示を出してもらえればそりゃあ楽だよね。でも社会に出ると、それを待っているだけの人は「指示待ち人間」なんて言われて、できない人扱いされちゃう。だからそうならないように、自ら考えて動くことができるようになっておいたほうがいい。
高校生になると、定期テストに向けた勉強がその練習だったりする。中学生の時のように「ワーク〇ページから〇ページまで」といった具体的な指示は出なかったりするからね。自分で考えて進めなくてはならない。はじめは不安かも知れないけれど、「困ったら『全部』やる」つもりで行動を起こしてほしいと思う。高校は義務教育じゃない。つまり自ら動かないといけないんだよ。
英文法の学習を終えた中学生は、文法の復習をしつつ長文の精読に入っている。
それで各都道府県の入試問題なんかを読んでいるのだけれど、文章の中には結構複雑な文も含まれている。完了形と受動態がくっついている文とか高校の学習範囲だけれど普通に出てきている。埼玉県の入試問題だとあまり見ないけれど他の県だとけっこう見かけるね。
なので、そういう文が出てきたらそこの解説もついでにやっちゃう。折角だからね。今からこういう文もガシガシ読んでいれば、埼玉県の入試問題なんてラクラク読めちゃうだろうね。早目に長文読解指導に入れたアドバンテージを活かしていこう。
いるよね。定期テストを受けただけで、「何かを成し遂げた」気持ちになっちゃう子。いるいる、というか結構な割合でそう。だからテストが終わった途端、ファ~って背中に羽が生えてどっかに飛んでっちゃうの。
トップ層の子でそんな子はまずいない。少しは休むかも知れないけど、すぐにピッとテストの解き直しとか、次に向けた勉強を始める。なんならテストが終わったその日に自習に来て勉強してる。そんな子が成績の上位者になって、やがて人の上に立つ人になっていくんだよね。
もくせい塾では、テストの為に授業を前倒したりテスト前に授業を詰めたりはしない。通っているみんなに上のような子になってほしいと思っているからね。テストをさも一大イベントかのように取り扱って、祭りのあとは余韻をのんびり楽しむ…なんてことはしない。いつでも規則的に、コツコツ勉強していってもらう。それができない子に上位争いはできない。
小4の算数には「整理して表に表す」の問題がある。いくつかの図形が散らばって配置されていて、形ごとに数を数えて表を作るみたいな。
そのときに「『正』の字」を使って数え、そのあと算用数字で表す。しかし、生徒の解いている様子を見たら、正の字と算用数字の記入を同時にやっちゃっていた。頭の中でかぞえた数を覚えておいて、正の字に直してる。頭の中に数を置いておけるだけの力があるのはいいことなんだけれど、これだとまず正の字で表して算用数字に直す意味がないね。なので
「図形は先生が見つけるから正の字を書いてみてくれる?」
として役割分担をし、数える時に正の字を使うことを教えた。
手順を省略したり、同時に行おうとしたりするのは間違いのもと。計算問題などで途中式を端折って間違えるなんてまさにそれだね。階段を上るとき、一段飛ばしで登れそうでも登ったところでバランスを崩してしまうようなもの。まずは一段一段踏みながら登ってみて、重心がブレなくなってから1段飛ばしにチャレンジしていくべきだ。
急がば回れ。正確に手順を踏めることがスピードにつながっていく。
「できない」と言うことで、楽に流れようとしてはいけない。
ここ数日、生徒の「できない」に対して思うことがある。できないことがあるのは当たり前だしそれを教えるのが仕事だからいいのだけれど、「やりたくない」を「できない」に変換していると感じることがある。
小テストの準備。能力的に不合格になっているのではなく、明らかにやってきていない。だって再テストをすると合格できるのだもの。なのに理由を聞くと「頑張っているけれどできない」的な言い方をしてくる。「頑張っている」をそんなに安く使ってはいけない。
作文や記述問題を空欄で済まそうとすることに関してもそうだ。テストの時は、分からないなりに途中点をもらおうと何かしら書くよね。なのに授業で出たものに対して全くの白紙で持ってくるのは、能力的なもの以外の何かが見える。
これはいわゆる「負け癖」というやつじゃないのだろうか。
「あーもういいや、『できない』で」
と言っているように感じるよ。
兄妹で通っている小学生の生徒。
たまたま私が席を外していて、入室したときに顔を合わせなかった。私が戻って来たときに、お兄ちゃんのほうが挨拶をしてくれたので挨拶を返した。
そのあと兄妹で小さい声で何か話している。「ん?なんだろう」と思っていたら、
「せんせいこんにちはー!」
と、妹ちゃんのほうからも挨拶が。きっとお兄ちゃんが「挨拶するんだよ」と教えていたんだね。ほっこり。
勉強だって大切だけれど、それ以上に大切なものがしっかり身に付いているなと感じた。
今日は近隣の中学校の中間テストだった。塾生のできはどうだったかな。
テスト前の生徒の様子を見ていたところ、しっかり準備をしているなという感じの子がほとんどだった。ゴールデンウィーク期間もきちんと勉強していたのだろう、頼もしいね。しっかりテストで力を発揮していてほしい。
定期テストは学力を測定する側面ももちろんあるけれど、「自己管理力」を測る指標でもあると思う。準備をきちんとした子はその結果が表れ、そうでない子はそれが表れる。丁寧に、コツコツ自分の課題を進められる子にはちゃんと成果が付いてくる。真面目であるとか、ひたむきである・一生懸命であることが評価される世界だと思う。
もう春も終わり梅雨に入ろうかという時期だけれど、春先で新しい環境に身を置いた生徒も多い。もくせい塾にもそんな子たちがいるので、勉強の「いろは」みたいなのを少しずつ書いていければと思っている。
最近気になったことを含めて「これはやめたほうがいいよ」ということ。まずは、「幕ノ内ノート」。
1つのノートに数学や英語などの勉強が混在して書かれているノートのこと。お弁当ならばいろいろなおかずが入っているのは嬉しいけれど、勉強でこれはよろしくない。そもそもノートを科目ごとに分けないのは、「『その程度の重要度』という認識」だからだ。自分の中で、重要なことをやっているという意識が希薄な勉強は当然身に付かない。
また情報が整理されていないノートは検索性が低く、後で「使えない」。どこに何が書いてあるのかすぐに見つけられれるようにしておけば、もしも勉強内容を忘れてしまってもすぐに確認できる。ごちゃごちゃだとそれはできない。それだと結局自分の頭の中身だけで勉強してかなくてはならなくなる。
ノートは空間を残して使うことで、後で新たな事柄を書き足したりできる。成長させることができるのだ。たとえ自分で問題を解いて丸付けしただけのノートであっても、何を間違えたのか、どの知識が足りなかったのかを書き足すことで、自分専用の教科書にもなる。だから幕ノ内ノートな勉強を止め、ノート術を磨いて学力につなげてほしい。
テストについて、たくさんあったほうが修正がききやすいと書いた。
良いこととして他にも、テスト回数が多いほうが「勉強の濃淡が減らせる」ということもあるかも知れない。テスト前だけ勉強する子って多いものね。テストが増えれば常に勉強している状態に持って行けるかも。(または、全く勉強しない状態になるか)
しかしここまで考えてみて、「小テスト」の役割ってこれだよなぁと思った。定期テストのような大きなテストが頻発できないから、小テストで継続して勉強してもらうってのが目的のひとつかな。
もっと言えば、普段から問題を解く時に「テストのつもり」で解いている子は毎日、全ての問題がテストとしての勉強になるんじゃないかしら。問題演習を「練習」のつもりで解いている子と「テスト」のつもりで解いている子、成果が変わりそうだよね。まさに「練習は試合のように、試合は練習のように」の勉強版だ。
塾で「問題演習」という言葉を全部「テスト」という言葉に置き換えてみようかな。
もうすぐ中学生の中間テストだ。
近隣の中学校では、1学期に中間テストがある所と無い所がある。
どちらにも理由があって一長一短だっと思うけれど、1学期中間テストのあるところは、当然テスト範囲がかなり狭くなる。まだ新学期が始まって1ヵ月ちょっとだからね。授業がまだほとんど進められていないせいで、「前学年の内容」がテスト範囲に含まれていたり、中1の場合は小学校の内容がテスト範囲に含まれていたりすることもある。これで成績が付くとなると、定期テストの「学習内容の確認」という意味合いは果たせているのかちょっと疑問だったりするよね。
一方中間テストの無いところは、1学期の定期テストが期末テストの1発勝負になる。当然範囲も広くなるし、成績が付くという面では1発勝負はちょっと酷な気もする。そのせいか1学期の成績はやや甘めについている気もするけどね。どちらのほうがいいとかは分からないけれど、私はテストは多いほうがいいと思う。自分の力を確認するという意味合いでは、こまめに分かるほうが修正もしやすいからね。「いつの間にか悪くなっていた」ということが防げるかも知れない。もちろん学校は勉強だけが全てというわけでは無いのでテストばかり増やすわけにはいかないんだろうけれど。
授業で行っている英語のテストの再テストを受けに来たであろう子が、受けずに帰ってしまった。残念だねぇ。
たぶんだけれど、その理由は「教科書を持ってくるのを忘れたから」だと思う。以前も忘れて、私に一度注意を受けているからね。もう一度忘れて何か言われるのが嫌だったのかも知れないと推測している。
明らかに再テストを受けにきた素振りはあった。でも40分くらいでさっさと帰ってしまった。私は早々に「教科書忘れたな」と勘付いたけれど、その子がどう振舞うかを見ていた。
「気付いたならなぜこちらから働きかけて助けないのか」と言う意見もあるとは思うが、ここで手を差し伸べてしまうことで奪ってしまうものもあると思ったのだ。おそらくその子は自分の忘れ物のせいで計画が崩れたことを悔やみ、次は教科書を持ってくるだろう。そちらの成長に賭けたい。
ただ今回の最善手は、「忘れたことを正直に言って塾の教科書でテストを受ける」だったかなとも思っている。怒られる(注意程度で別に怒らんけど)のを覚悟して来たら、自分の計画も進められたのにね。そういうなりふり構わないくらいのずうずうしさも時には必要なので、身に付ける練習を私を使ってやっていってほしいよね。
他人の力を借りて勉強ですぐに結果を出そうとするのは危険だ。代償無しにそれはできない。いやこれは結果を出せない塾講師の言い訳じゃなくてね。
例えば植物をイメージしてほしい。根で吸い上げた水分や無機養分が茎を伝い、葉に届いてそこで光合成に使われる。光合成で出来た有機養分は体を作ったり生命活動に使われることになる。そうしてやっと花が咲く。
それを「すぐに花を咲かせて下さい」ということになれば、まず根を切り離し自然界にはない高濃度の栄養分に茎を直接浸す。葉は余計な養分を使ってしまうので邪魔だ、全部切り落とす。温度や照度管理された部屋で一番早く花が咲くように昼と夜を疑似的に感じさせる。そうすれば自然界にあるよりも早く花が咲くかも知れない。
しかし、その植物はその後すぐに死ぬ。
これを子供の勉強に置き換えてみようか。まずは毎日授業しましょう。大丈夫、そこで手取り足取り必ずできるようにさせますって。授業の無い時間もずっと教室で課題をやっていて下さい。勉強以外のことをするとせっかく覚えたことが抜けちゃうので部活動は辞めましょうか。他の習い事なんて絶対にダメですよ、そんなの時間の無駄無駄。あ、もちろん学校が終わったら直で塾に来てくださいね。夕食はお母さんがお弁当を後で届けてください。夜は遅くなるのでできれば送り迎えもよろしくお願いしますね。そうそうテストの3日前くらいからはもう学校も行かなくていいですよ、テスト範囲は終わっているはずですし風邪でももらったらどうするんですか。大丈夫、中学受験の現場でもよくあることですって。では、定期テストに向けて今から指導を始めますね。
え?「今の生活を維持したまま」成績を上げてほしいって?それは自然の中で他の花より早く咲かせてほしいって言っているようなものでしょう。それだとせいぜいちょっといい肥料を撒くくらいしかできませんって。他の子よりも成績良くしたいんでしょう?言われた通りにしてください。
ね。お子さんをどこまで差し出せますか?その子の成長曲線を無視することなんてできないよね。
暗記力、何かを覚える技術は、早目に身に付けておいたほうがいい。「覚えないと付いていけない!」となった時には、すでに大量の「覚えるべき事柄」を通り過ぎちゃっているはずだから。
もくせい塾で本格的に始めるのは中1になってからだけれど、これをきちんとやらないまま中学生をある程度過ごしちゃって後で困る子って結構いるんだろうなぁって思う。他所から転塾して来た子って、だいたいここが弱い。だから中学生になって困らないように、中1の関門をしっかり用意して壁を乗り越えてもらわないといけないって思っている。
「暗記に頼らない学力を育てる」みたいなのも、結局は暗記した知識が必要になる。耳障りの良い言葉に騙されてはいけない。必要最低限の用語は身に付いていないと、考えることすらできないからね。
春、この時期は生徒の「忘れ物」との戦いでもある。
生徒が塾に必要なもので持ってくるのを忘れやすいものの中に、「教科書」がある。学校の教材は特に持ってくるのを忘れがちだ。学校と塾とで使うカバンが違うと、中身を入れ替えたりもあまりしないよね。気持ちは分かる、でも使うから持って来てね。
で、それは別にいいのだけれど、先日忘れた子に話を聞いたら、
「学校で『置き勉』をしていて持ってくるのを忘れた。」
ということを言っていた。確か「『重い』教材を毎日持ち帰ると健康に被害が出る」とかで、今は学校に置き勉ができることになったんだよね。私から言わせると、「なんじゃそりゃ。じゃあ置き勉不可だった時代のわしらは全員骨格が歪んどんのかい」と感じなくもないが、そういう時代なのだろう。それで思うのは
「置き勉によって学習に影響が出ることについては誰も言わないのね」
ということだ。実際に置き勉が原因で教科書忘れが発生してるんですけど。これは早いところ教科書を全部電子化してもらわないと、この過渡期の子供たちの学力に影を落とすことにもなりかねないよ。みんなお家でどうやって勉強してんの?それともしてないの?
ゴールデンウィークに三内丸山遺跡を見て来た。やっぱり知識だけで知っているよりも、実際に自分の目で見たほうが勉強になる。生徒にもできるだけ生の情報を伝えたいからね。
住居はとても小さくて、入り口は腰をかがめてやっと入れるくらい。中の広さも2畳くらいじゃないかしら。かなり狭い。窓なんて当然ないから室内は昼間でも真っ暗。気を付けないと天井の梁に頭をぶつける。なるほどねぇ。
その他お墓が密集しているエリアや高床式の建物が建てられていたと思われる場所などを巡る。建物と建物の間隔はまちまちで、密集しているところもあれば1軒だけポツンとしているところも。その間をつなぐ道を歩いていると、なんだか縄文人になって集落で暮らしているかのような気持ちになれた。
ゴールデンウィークが明けた。
今日から塾も再開だ。連休中とは異なり、今日はちょっと雨が降ってしまっているけれど、連休にしっかり休めたのでまた頑張っていこうと思う。