板書を写す

やはり学力に大きく関わってくると感じているのが「再現性」だ。問題をただ解けるのではなく、お手本と同じように解けるか。上手に真似ができる子は上達も早い。

 

そのために求められる能力は、板書を写すことで養えると思っている。授業の板書をきちんと写すことができているか。たしかに授業で作られる板書の内容は教科書にあるものなので、教科書があれば必要ないと言えばそうかも知れない。最近ではプリント穴埋めや映像を利用した授業など、板書を写させない授業形態も増えてきた。

 

しかし情報を残す意味以外にも、先生の板書を真似して書く作業は「型」を取り入れることにもつながるのだ。板書は教師の作品。構成や使う言葉、色分けまで含め作成者の思考も踏まえて表現されているものなので、それを写すということは先生の思考パターンも写し取ることにもなる。こうして自分の脳に先生の考え方を写し取れた子は学力が伸びやすくなる。

 

ボーっとしていたり舐めていたりして、授業中に手を動かさず板書をきちんとノートに写さない子は、知識はあるかも知れないが先生の思考は写し取れていない。だから問題を解く時にイチから自分の解き方の理論を構築しなくてはならない。授業中に頭を働かせることなくただノートを写すだけでは効果は薄いが、きちんと内容を咀嚼した上てノートも写す。そうすることで先達の手法を真似することができるようになり勉強が上達していく。


早目の準備が勝利の条件

中間テスト3週間前になり、

 

「授業の小テストは先に進めたほうがいいですか」

 

とアドバイスを求めてきた生徒がいた。

 

弊塾では定期テスト3週間前からはテスト対策が行えることを目標に指導を進める。この生徒も英数ともに予習がかなり進んでおり、もうすぐ今年度の学習を終える。だからいつでも中間テストの為に復習に戻って来られる状況だった。本人もちゃんとそのことが分かっていたのだろう、ちゃんと自己管理ができている証だ。

 

私は先に進まないという判断を下し生徒に伝えた。

 

「そのかわり中間テストの範囲の2周目の小テストを準備して」

 

テスト対策期間に入っても塾内のシステムは動き続ける。こうしてテストに向けた勉強がはじまる。この時期から準備を始めてテストまでに何度も繰り返し学習できれば成績は必ず上がっていく。


作者の次回作にご期待ください

弊塾の生徒には学習記録をつけてもらっている。自習であれ授業であれ、塾に来た日は学習した内容とひとこと感想を書いている。

 

このねらいはいくつかあって、まずは勉強を点ではなく線にすることだ。たまに何度も同じ場所をやっている生徒がいる。繰り返すのは大切だが、無計画に同じ場所ばかりやっていても上達はしない。前回やったこと、その時の様子を残しておき次の学習時にそれを踏まえた計画にしてもらうのだ。

 

次に1日の学習時間の密度を上げること。無計画で勉強時間を過ごすと、いくらでもサボることができる。机に座っているだけで時間が経ってしまうからだ。だから学習に入る前に計画を立ててもらい、それをこなすように過ごしてもらう。To Doリスト型の計画表なので、どんどん処理する感覚で進めれば勉強の密度も高めやすいはずだ。

 

そして自分の勉強に対して自覚的になること。ひとこと感想を書いてもらうのはまさにこのためで、自分の勉強を「自分のもの」とできた子から学力は伸びていく。だから1日の終わりに自分の過ごした時間を振り返り、それがどうだったのかを言語化してもらっている。

 

つまり、生徒の学習記録シートを見ればその生徒が今後伸びるかがすぐ分かるということでもある。伸びる生徒のシートは「完璧な報告書」であり、それ以上に生徒自身の「意志表現」になっている。今まで見て来た成績の良い・学力の高い子のシートはそれ自身がルポルタージュであり、私小説のようでもあり、また演説のようでもあり、大変読み応えがあった。

 

マンネリした内容の薄い報告などいらない。勉強に本気であることが一瞬で分かるような、そんな学習記録を読者は待っている。


自分で動ける子に

自学力は質問力とセットだ。自学力を身に付けるには「質問」ができるようにならないといけない。自学は能動的な行動だ。受け身で待っているだけで身に付くものではない。

 

「うちの子、自分から聞きに行くことができないんです」

 

という話をたびたび聞くが、これは「ウチの子の自学力を奪って下さい」と言っているようなものだ。突き詰めれば「自分から聞きに行けない」から「分からないところを『お迎えに行って』あげてほしい」ということだろう。そうすると生徒の能動的な行為を引き出すことにならない。結果生徒はどんどん受け身になり、隣で付き添っていないと何もできなくなっていく。これでは本末転倒だ。

 

だから私は、上のようなリクエストがあっても

 

「では自分で聞きに行けるようにならないといけないですね」

 

と言うようにしている。突き放したように聞こえるかも知れないが、これが自学力を身に付けるということだ。

 

「面倒見がいいです」を履き違えてはいけない。面倒見の良さは、生徒の召使いとして仕えることではないし、ヘルパーとして介護してあげるものでもない。生徒の先々の人生を見据え、生きる力を身につけさせてあげることだ。私は生徒を愚かにさせるつもりはない。それまでは目の前に運ばれた食事だけをしていれば良かったかも知れないが、それではすぐに壁にぶつかる。自分で手足を伸ばすことを学んでもらう、それが弊塾の存在意義だ。


終わった時にそれを言えるか

日曜に演劇を見て来た。

 

出演者の方がこんなことをおっしゃっていた。

 

「終わった時にちゃんと『やりきれた』と言えるように臨みたい」

 

そうおっしゃる通りの素晴らしい舞台だった。

 

どんなことでも「終わった時」のことを想像するのは大切なのかも知れない。その時に後悔の無いように。受験生ならば受験が終わった時に、それ以外の学年の生徒でも定期試験が終わった時に、もっと言えば「今日の終わり」にちゃんと「やりきれた」と言える勉強をしているか。まだ終わりを意識するのは難しい年代の子たちにこれを伝えるのは難しい。経験が伴わなくてはできないことだから。

 

しかし業務が終わって、「おわりだよ」と言っているのにまだ机にかじりついている子たちにはその空気を感じることがある。終わりのチャイムが鳴る前から帰る準備を始めて物音をガチャガチャ立てている子もいる中、そういう子たちは「今日をやりきるんだ」という意志をまとっている気がするのだ。きっとそんな子たちの意識は加速して、普段よりも何倍も濃密な時間を過ごしていることだろう。(でも時間が来たら終わろうね)


自分は大丈夫?

同じ科目ばかり勉強してしまう子がいる。特に「数学」と「社会(歴史)」にその傾向が強い。

 

おそらく数学は問題が解けたときの快感を求めて、社会は答えを知っている安心感を求めてそればかりになるのではないだろうか。どちらにせよそれでも勉強した気になれるのでこの現象が発生する。それ以外の科目ではあまり見られないのが興味深い。科目ごとの解答する労力も影響しているかも知れない。

 

それで今まで勉強して来なかった子がそうなるのはまだいい。ゼロがイチになったことは喜ばしい。しかし受験生だと話が変わる。得意科目ばかり勉強してしまう受験生はまだまだ勉強と向き合えていない。受験は複数科目の総合力勝負になる。足を引っ張る科目があるとかなりキツイ。得意科目ばかりやってお茶を濁している場合ではないのだ。

 

受験生で苦手科目から目を背け、好きな科目ばかりやっている子は冬くらいになって(時には年明けになって)足を引っ張っている科目をどうにかしようともがきだす。しかしそれではもう遅いのだよ。早目に自分の「逃げてしまっている心」に気付かなくてはならない。


ノウハウを捨てよ、回り道をしよう

私は中学高校生時代に勉強のやり方などアドバイスを受けたことは無かった。学校で予習のやり方の説明を受けたことくらいはあったけれど、テスト勉強や受験勉強は自己流だった。だからその中で自分なりのやり方を試行錯誤し、たくさんの上手くいかないことを経験した。

 

そんなだから、弊塾に通っている生徒たちにも勉強の指示をあまりうるさくあれこれすることはない。塾のルールを守ってくれればその日生徒がやっていることに口を出すこともほとんどない。かなり放任だ。

 

「勉強のやり方を教えてください」

 

と保護者の方から言われることは多い。自分の中にもそれなりにノウハウはある。しかし今までの経験上、それをそのまま生徒に伝えてもほとんど効果は出ない。なぜなら「やり方」を教えても上辺だけの真似事になってしまうからだ。

 

結局、私が勉強をして身に付いた教訓は「どんなことでも上達するには試行錯誤が大切」ということだった。あれこれ失敗して結局一番効果的な方法を探る過程にエッセンスはあるのではないか。だから経験の無い子に最短距離の進み方を教えても意味がない。結局その距離をノロノロと歩くだけになる。自分のやり方を試し、失敗し検証して次の策を練っていく。その中で「なぜ効果が上がるのか」を自分の言葉で説明できるようになることが勉強できるようになるには必要なのだ。

 

もちろん生徒が勉強のアドバイスを求めてきたら答える。具体的なやり方も示す。しかしこれは生徒が自分の道を歩き出した証拠でもあるのでやっている。そういう子にするアドバイスは効果が出る。

 

回り道をしたらいい。その道を用意してあげることこそが「勉強のやり方を教える」ことなのだと思う。


アゲハチョウ

子供の頃、アゲハチョウを飼ったことがある。飼ったと言ってもそんな大層なものではなく、見つけた幼虫をもと居たみかんの枝ごと虫かごに放り込んだだけのものだったが。アゲハチョウの幼虫は危険から身を守る時に角を出して威嚇する。それはどことなく柑橘系の匂いがした。

 

さてその幼虫だが、持ってきた枝に付いていた葉をあっという間に平らげた。私ははじめその食事風景が面白く何度か葉を放り込んでは眺めていたが、やがてそれにも飽き次第に虫かごを覗くことは無くなっていった。

 

2,3週間ほど経った頃だろうか、幼虫はサナギになっていた。それを見て驚きはしたが、幼い私は動かないサナギにもすぐに飽きてまた放置した。しかしさらに数日後、サナギはついに蝶になった。

 

20センチ四方ほどの小さな虫かごの中で羽をバタつかせている蝶を見た私は「幼虫から成虫へと育て上げた」ことに興奮し、再び蝶を観察した。しかし私の育てた蝶は、自分の知っているアゲハチョウよりも一回り小さく、モンシロチョウほどの大きさしかなかった。おそらく幼虫期に与えたエサの量が足りなかったのだと思う。

 

その事実にショックを受け、私はそうしてしまった罪悪感から逃れるようにその蝶を逃がすことにした。自宅アパートの3階の窓から健気に飛んでいくアゲハチョウを見て私は「育てる」ことについてはじめて何かを思った。

 

育てるとは時間と手間のかかる作業だ。育てる側に愛情が無いと、蝶の羽は大きくならない。


学生時代に何を学んだか

先日、母校の応援団を特集しているテレビ番組があり視聴した。歴史ある応援団唯一の3年生の引退までを追ったドキュメンタリーだ。

 

当時と変わらない部分に対しては懐かしさやノスタルジーも感じつつ、私の在籍していた頃との違いも楽しめた。もっとも私は不良高校生で母校への帰属意識は希薄だったので、自分が知らないだけで当時もそのような気風はあったのかも知れない。

 

見ていて思い出したことがある。番組の中で応援団長への印象を生徒たちにインタビューしているのだが、皆一様に「尊敬できるすごい奴」という答え方をしていた。これが番組製作側の恣意的な編集なのは重々承知として、ひとつのことに打ち込み、貫くことを「カッコいい」とする風土は当時からあったような気がする。

 

応援団なんてバンカラの最もたるイメージで、ともすれば時代遅れの「ダサい」ものだろう。しかし私は応援団や「愚直でも続けられる人」をカッコいいと思う。そしてそう言える目を高校時代に養えたのは良かったと思っている。カッコいいはひとつじゃない。そして見た目だけでなくその背景にあるものがカッコいいんだ、と。

 

こんな不良品だが、そういう多様性への意識を育めた母校には感謝している。


信じる心

その生徒は、進路面談の際に私からの提案を「嫌だ」と突っぱねた。

 

私が提案したのは、その子の偏差値からすると「妥当な」学校であり、むしろ持っていた通知表の成績からすると「少し背伸びした」学校ですらあった。私の指導力ならそのくらいはなんとかなる、と思っての提案だった。

 

その子は、

 

「自分はそんな学校に行くような人間じゃない」

 

と言った。

 

当時の私は、その子の言い分をただの自意識過剰な駄々のように感じていた。代わりに本人が挙げてきた志望校は、その子の成績では過去に誰も合格者は出ていなかったし、学校からもそう言われていた。受験まで残り8ヵ月、偏差値も通知表も全く届いていない状況で、どうやって受かるんだ、と。

 

そのくらいの時期だと、まだまだ「夢を見て」いる生徒も多い。私の反応は冷やかだったと思う。以前まで勤めていた塾では塾の名に傷を付けるわけにもいかないのでそんな受験を認めることはしなかった。「全員合格」がモットー。偏差値も通知表も届いている安全圏の受験を。保護者も交えて話し合った結果、併願戦略を練った上で本人の希望する学校を受験することになった。私はその子が受験に失敗し併願校へ通うことになる未来を何度もシミュレーションした。

 

結果、私の考えは全て間違いだったことになる。

 

その子はその後偏差値を更に7ポイントも上げ、通知表の大きなビハインドも覆し第一志望校に合格した。弊塾から出た逆転合格者の第1号だった。学校の先生も大変驚いていたそうだ。某中学校の過去卒業生データには、こうしたイレギュラーがいくつか存在しているはずである。

 

私はこの時の記憶を、ご両親の言葉と共に思い出す。ご両親はこの進路面談の際こうおっしゃった。

 

「本人の意思を尊重したい」

 

かなわねぇなぁ、と思う。


焦ってる?

今日も学校から帰って来るなり、高校受験生たちが教室に来て勉強を始めた。私も生徒の暗記チェックや質問対応に回っている。

 

秋は、受験生たちの目の色が変わってくる時期だ。私が毎年「あ、本気になったな」と感じるのは、生徒たちの教室へ来る時間帯の「幅」が狭くなった時だ。

 

近隣の中学校に通っている子たちだから、学校が終わる時間は同じ。自宅もそう離れているわけではない。だから学校が終わって一旦帰宅してからすぐに教室に来るようになると、みんな近い時間帯に集まるようになるのだ。ゆえに最初に来た子と最後に来た子の時間差が縮まる。それまでの「少し休憩してから…」という意識の子がいなくなってくると起こる現象で、これはいよいよ本気だなと感じる。今日はその差が30分も無かった。

 

この記事を見ている保護者の方で、現在まだ受験生のお子さんが通っている塾に出かけておらず自宅いらっしゃる場合、申し訳ないがお子さんは弊塾の受験生たちには絶対に勝つことはできない。なぜならこの行動は私が指示したものではなく、生徒たちが自ら起こしているものだからだ。夏休みから長時間学習を始めて体を慣らしてきた。それに伴って意識も高まってきた。そうした仕込みの無い秋を迎えてしまうと、今でも家でスマホをいじっているような受験生活になる。


本気の生徒は行動が変わる

最近は平日に学校説明会を実施する高校も増えた。休日は教員を休ませるという働き方改革の影響だろう。

 

平日の今日、夜から実施される学校説明会に参加する生徒がなぜが塾に来ていた。聞くところによると、これから説明会に参加してまた教室に戻ってくるそうだ。

 

説明会の前に誰よりも早く教室に来たその子は私の前で暗記のチェックテストを受けた後、慌ただしく説明会へと向かって行った。やろうと思えばこれくらいの行動はできるということだ。本気が見られて嬉しく思う。体調には気を付けて精一杯受験生をやっていってほしい。


教室内での居眠りについて

もちろん体調面のことは考慮するが、それでもやはり教室内での居眠りを「良し」とはできない。なぜなら「周りの人の迷惑になる」からだ。

 

自分が一生懸命に頑張っている横で、フザけた態度の人がいたらどうだろうか。「やる気がないなら視界に入らないでほしい」と思わないだろうか。教室内での居眠りとはそういう行為だ。頑張りたいと思っているがどうしても体調面がすぐれなくて舟を漕いでしまうというくらいならまだいい。机に突っ伏して堂々と眠っているのはいかがなものか。それは居眠りすることを「許された」人間がすることだろう。私はそれを認めていないし、少なくともそれを見た私のやる気は削がれる。正直言って「視界に入らないでほしい」だ。

 

以前は苛烈にブチ切れて帰宅させていた。いろいろ考えて今は注意のみに留めているが、こういう生徒は何度注意しても治らない。自分が他人に迷惑をかけている自覚がないからだ。これからも基本的には何も言わないが、何も言わないのと何も思わないのは違う。心当たりのある生徒は私の機嫌を損ねないよう気を付けてほしい。


夏期講習の振り返り➂

中3第4回北辰テストの結果が出た。これを踏まえて夏期講習の最後の振り返りをしておきたい。

 

今回の北辰テストで初参加の生徒も多かったので塾内偏差値の変動はアテにならないが、個人で見ていくと継続的に受けている生徒で伸びたのが半分、現状維持が半分というところ。明確に下がった生徒はいなかったが、大きく伸びた生徒もいなかった。

 

毎年そうだが、科目ごとに見ると伸びた生徒は理社の成績の変化が大きい。今年はだいたい偏差値が5ポイント前後、最大で11ポイント伸びている。今まで暗記をしっかりやってこなかったというのが理由だろう。理社の学習自体もあまり触れていなかったのかも知れない。

 

他には国語の成績が伸びている生徒が多い。夏休みの課題に毎日読解問題を入れていたこと、漢字テストを行っていたこと、そして即効性の高い古文と作文の指導があったことが原因と考えられる。

 

数学や英語(と国語)は即効性がが低いので結果は人それぞれ、全体的なトレンドはつかみにくい。英語が伸びた生徒もいればやや下がった生徒もいる。特に数学は凡庸な結果に終わってしまった。強いて言うならば数学の大問1の問題4つ目までは塾生の正答率100%で通過できたことは明るい。基礎固めができたので、秋以降の伸びに期待したい。

 

総括すると当たり前の結論になってしまうが、毎回の授業、課題、そしてテスト道場にしっかり取り組んでいた生徒は成績が上がっている。課題をやり切っていない、テストに合格していない、自習せずに帰っていた生徒は伸びていない。対照実験のようになってしまって嫌だが、夏期講習に一定の効果は見られる結果となった。

 

受験生たちはここからがプレッシャーも大きくなり本当の戦いになっていく。指導はもう少し続くが、受験勉強はまだまだここからだ。夏に振るわなかった生徒はもう一度自分の進路についてよく考えてて行動に移すこと、伸びた生徒も手を抜くとこのあと下がっていくので気を抜かないようにいくことを期待したい。


塾が防波堤になるべき案件

今の弊塾にはいないが「指導に口を出して来る系」の保護者がいる。偏見だが、そういうご家庭の生徒の成績はほとんど上がらない。なぜなら親に忍耐力がないからだ。

 

我が子にはあれをやらせて下さい。やったらテストをしてチェックしてください…

 

昔働いていた職場では「じゃあ自分でやりなはれ」と言いたくなるほど指導の指示をされる保護者の方もいた。きっと子供が「言うことを聞かない」状態になっていてフラストレーションを溜めていたのだろう。だから塾の先生を通じて自分の言うことを聞かせたかったのだと思う。

 

しかしこれは悪手だ。まず子供が親の「言うことを聞かない」のは、すでにガミガミ言われ続けて耳を塞いでしまっている状態だからだ。それを直さずに別の人を通じて言うことを聞かせようとしたって何も変わらない。

 

結局そういうご家庭は、生徒指導をはじめても成績に変化が見られる前にしびれをきらして退塾してしまう。生徒が話を聞かない状態に凝り固まってしまっていると、それを解きほぐす作業から入らねばならずそれなりに時間がかかる。自分で結び目をぎゅっとしてしまったのに、それをほどくのを手伝っている人に「早くして。ねえなんですぐできないの?早くしてってば」って言っているのだ。

 

子供は自分とは別の人格だ。それに対し要求を即時に通しその通りに動かすことなどできない。そこで我慢できないと「ガミガミ」が出てくる。なんとかしたいと思う親御さんの気持ちは汲みたいが、塾に入れても親がその姿勢のままだと変えることはできない。矛先は塾へと向き、指導に対してもあれこれ口を出したくなっちゃうのだろう。結局子供をできなくさせているのはその親自身なのだ。

 

指導に注文を出されていたはじめの頃、私は全部引き受けようとし、できる限り言われたままやろうとしていた。言われた通り生徒の学力に合っていない教材を使い、言われた通り時間的・能力的にできないテストを課し、言われた通りできるまで自習に残ることを強制しその日の業務終了まで座席に座らせ続けた。それがサービスだと思っていた。それで結局生徒を苦しめてしまっていたのに。もっと早く気付いて、今の姿勢で親と対峙すべきだった。私が強制すべきは生徒ではなく親だったと今なら言える。

 

その時の子供の「また辛いことをさせるの?」と言いたげな暗い表情は忘れられない。


自ら考えて行動する

今日も教室を開けて間もなく、受験生たちが自習の為にやってきた。

座席に荷物を置くなり、すぐに私の元にやってきて

 

「英語の教科書のテストを…」

 

「社会の用語集のテストをお願いします」

 

と、それぞれ希望のテストを申し込んでくる。土曜の前半は私も時間があるので生徒もこのタイミングを狙ってくる。先ほどまで相手をしていた。

 

再テストは塾のルールなので受けにくるのは当然だが、社会や理科のテストなどは私がやらせていることではない。どうすれば学力を伸ばせるかと自ら考えてのことなのだろう。これぞ自学力。もちろん受験が近いというプレッシャーのもとでの振る舞いに過ぎないけれど、自分で考えて行動できる子はどんな道に進んだとしてもきっと大丈夫。

 

勉強を教えるのではなく、勉強の仕方を教える。一見遠回りだが、これができるようになると一人になってもずっと遠くまで歩いていける力になる。


日本語をしっかり使う

先日、ある生徒の東部地区テストの結果を見せてもらった。英語の偏差値が70を超えた。

 

英語は努力の科目だ。かけた時間に学力が比例しやすい。だから真面目に勉強しているのに英語の成績がそれほど伸びない場合、普段使っている「日本語」に原因がある。日本語は主語や目的語を「省略」しても話が通じるし、時制もあいまいでなんとかなる。しかし英語ではこのあたりにきちんとルールがある。だれが、いつ、なにを、どうしたということをしっかり表現する必要がある。

 

だから英文を書く時に「日本語のあいまいさ」を持ち込むと失敗する。日本人ならば英語の問題を解く時でも日本語で考えているだろうけど、普段使っている日本語がふにゃふにゃだと正解できない。普段から主語を省略してしまったり、単語での会話の癖がついていると英語で伸び悩むのだ。ここに英語学習の落とし穴がある。

 


塩対応

入塾を検討して面談に来られる保護者の方と生徒には、

 

「ウチは放任です」「自習はほったらかしにします」「自分で勉強してもらいます」

 

などのネガティブにも取られかねない言葉を使って自塾の説明をする。なぜかと言うと「覚悟」をしてもらうためだ。

 

たしかに

 

「面倒見がいいです」「きちんと見ます」「分からないところは徹底的に教えます」

 

と伝えたほうが耳障りが良くて聞いているほうも安心できるだろう。しかしそう言われて「じゃあ塾に全てお任せすれば勝手に成績が上がっていくのね」と期待されてしまうと困るのだ。塾は学習サービスの提供であって子育て施設ではない。預けるだけじゃ勝手に育つことはない。

 

ほとんどの塾に言えることだと思うが、「授業の時間」以外で生徒に塾のスタッフがつきっきりになることはまずできない。塾運営で最もコストがかかるのが人件費。もしも自習などもつきっきりになってくれる塾があるのなら、その費用も料金に含まれている。つまり「面倒見がいい」にも限界があり、それは保護者の方が期待しているよりもずっと低いものになる。あくまで塾の言う「面倒見がいい」は料金の発生する授業の中でのみなのだ。だからなんでも手取り足取り全部やってもらおうと思っていると痛い目を見てしまう。

 

その点、弊塾のように初めから塩対応だと期待を上げ過ぎることはない。成績を上げるのはあくまで生徒本人。本人の努力なしに伸びることは無い。そしてその努力をさせるのは保護者の方である。その上で、塾が学力を伸ばすサービスを提供する。甘言にご注意を。こうした知識が無いと、期待して通わせたのに成績は下がる一方で

 

「でも子供が楽しそうに通ってるから...」

 

などと、変な理屈で臍を噛むことになる。だったらゲームソフトでも買い与えればいいのに。

 

弊塾は売上のために甘いことなど言わない。不親切な塾だと切り捨てられるならそれも止む無し。覚悟を持ってやってきてくれるご家庭に、全身全霊を持って指導させていただくだけだ。


負けず嫌いでしつこい

勉強に必要な要素は「国語力」「負けず嫌い」「しつこさ」だと思う。

 

特に負けず嫌いやしつこさなんてのは、その子の性質にも関わっているのでもしかしたら才能と呼べるしろものかも知れない。

 

昔、浦和一女に合格した生徒が、自分がクラス委員に慣れなかったことを非常に悔しがっていた。投票で負けてしまったライバルに対し、「私のほうが勉強できるのに…」と言っているのを聞き、なんとなくその子の学力の一端を垣間見た気がした。その子は今後人の部分が育てば、立派なリーダー足りえるだろう。負けず嫌いというのは競争である学歴において強力なモチベーションになる。

 

また、越谷北に行った生徒は、私の暇を見つけるたびに何か暗記したものを持って来てはチェックを申し込んできた。自分の満足のいく出来でなかった時は「もう一回、もう一回」と繰り返しを希望する。こちらが「もういいから」と音を上げそうになるくらいだった。

 

こういう泥臭さのようなものが学力を押し上げる。負けず嫌いでしつこい、勉強においてこれらの言葉は「誉め言葉」なのである。


文武両道って時間をかけた準備が必要だ

これは言語化するのが非常に怖いのだけれど、子供に突然「文武両道」を目指させるのは非常にリスキーだと思っている。

 

文武の「武」からスタートするとまず上手くいかない。塾に来る生徒で「文武両道にさせたい」ご家庭は、たいがいすでに何かスポーツに力を入れていて成績が下がったか、受験が近くなったかでやってくる。

 

「スポーツを今のペースで続けながら勉強も頑張らせたい」

 

と言って。

 

たしかにそうなれば理想なのは分かるけど、生徒のやる気をはじめとしたリソースはスポーツにほぼ持っていかれている状態だ。生徒自身もそこに自負を持っていることが多く、今更苦手な学力を伸ばしてやろうなんて思っちゃいない。その状態を崩さずにどうやって「文」を育てることができるだろうか。こういう時たいてい勉強に割ける時間は人より少ない。勉強だってそのスポーツに掛けてきたのと同等の時間が必要だ。片手間にできるようになるものじゃない。

 

「○○君は勉強も運動もできる(からウチの子だってやればできる)」

 

とおっしゃる保護者の方も結構いるが、それは「入口が違う」。そういう子は早い段階で勉強の土台ができている状態でスポーツもスタートさせている。スポーツに全振りしちゃった後ではその子と同じにはなれない。それはゲームでレベルアップボーナスを筋力のステータスを上げるのに使いまくったキャラを今から魔法使いにするようなものなのだ。

 

子供を文武両道にするには、結果が出る学年になる前、そう、小5くらいまでにある程度の学習習慣と学力を身に付けさせておくことから始めるのがポイントだと思っている。これを過ぎてから本当に勉強をどうにかしたいのなら、もうちょっとリソースを開けるために犠牲を払ってもらわないといけない。こんなことを言うとある層の人たちからは確実に嫌われるだろうけど。


本気じゃなければ泣く資格など無い

 

受験で志望校に不合格になったとき、君は泣くだろうか。

そして、その涙は何からくるものだろうか。

 

「目指していた道が閉ざされる悔しさ」からか?それともただ「自分が拒絶されたことで受けるショック」なのか?

 

この仕事をしてきてたくさんの受験を生徒と共に迎えた。臨まない結果だってたくさんあった。その時に泣いている生徒を見て、本当に目標に向かってずっと頑張ってきた子の涙はこちらに訴えかけてくるものがあった。そんなときは自分の不甲斐なさを痛感し、ただただ痛みだけを感じてきた。おそらく私は、そういう記憶を自分の受験指導に対する心構えにしている。だから私は受験を侮らない。

 

だがしかし、直前まで勉強をずっと逃げ続けているような子の涙は申し訳ないが響かない。それは本当の悔しさではないと感じてしまうからだ。

 

不合格を経験したどんな子でも、縁のあった学校で笑顔になってほしいと願っている。願ってはいるが、受験の傷をバネにしてそこで更に頑張れる子だけが本当に笑顔になれるのだとも思っているのだ。学習の指導者としてこんなことを言うのは失格かも知れないが、私は、自分の指導する生徒たちにはもちろん全員に望んだ道を歩んで欲しいが、もしそうでなかった場合は、私の琴線に触れる涙を見せてほしいと願っている。つまり中途半端はいらない。本気だけが見たいのだ。


暗記を続ける

「暗記」は辛い作業だ。地道だし孤独だし覚える時はストレスも感じる。できればやりたくないという生徒もいることだろう。だからこそ、暗記作業をきちんとやる生徒は他を出し抜くことができる。暗記をちゃんとやる子は勉強が孤独であるということを知っている。それを知った上できちんと向き合おうとする戦士だ。誰かが隣についていないと何もできないようなお勉強ごっこをしている者とは覚悟が違う。

 

弊塾では中3の夏休みにある程度の量の暗記作業を課す。他の優秀な塾に比べればたいしたことないが、それまでの学校生活では経験したことの無かった量だろう。ここで生徒たちは、受験生としての土台を鍛え上げることになる。チェックテストをすると慣れるまでは不合格を連発することになるが、それでも食らいつく子は夏が終わる頃には見違えてできるようになる。たった1ヵ月ほどで人は変わる。

 

ここで身に付けた暗記作業へのコツ・暗記力はこの後受験勉強をしていくときに学力を支える大きな武器となり、高校に入学してからも怒涛の知識のシャワーを受け止められるようになる。つまりは一生ものの力になる。

 

今年の夏に行った理科社会の暗記テストの残りを「夏が終わってからも個人で進めてテストを受けにおいで」と伝えてある。まあそう言っても多くの生徒はやりに来やしないが、中にはきちんと継続している子たちもいる。夏に暗記の効果を実感できたのだろう。1ヵ月で変化を見せた子たちがこのまま続けていけば、受験まであと数か月であっても、この先まだまだ進歩していくことだろう。

 

だから私にできることは、この孤独な作業を続けている戦士たちをテストという形でもって労い、その成長を祝福してあげることだけだ。


夏期講習の振り返り➁

 

授業内容に関してはほぼ例年通りに行った。5科目中1から中3の1学期までの復習、国語は現代文・古文の読解法、文法・作文の解き方講座。英語は文法の解説を厚めに行いその中で受験テクニックをしこたま仕込んだ。数学も苦手範囲を中心に全範囲の基礎~標準問題の解説。理科と社会は基礎事項の確認。理科は計算や実験考察問題などの解法も比較的多く触れることができた。

 

今年はそうだったのだけれど、集まった生徒の学力差が大きい場合、そのターゲットの絞り込みが難しい。なので私は基本的には「超基礎」の指導を行う。ついて来られない生徒が出ないように、そして高学力層であっても基礎学力が盤石な生徒はほぼいない。私が出会った中でも過去に4人くらいだ。だからそういう子にも絶対に刺さる授業となると自負している。

 

勉強が苦手な子でも分かるように、そして得意な子を退屈させないようにするのは苦労するところだが、授業の最中に生徒の表情を見ながら修正を加えて変更していくライブの楽しさでもある。


ここには勉強しないという選択肢はない

弊塾は勉強をやらない生徒には厳しい。これは塾を立ち上げた時から守ろうと思った姿勢だ。

 

どう厳しいかと言うと、勉強をやらない生徒に対して「え?なんでやらないの?」という態度で接する。勉強は「やって当たり前でしょ」だ。やらないことに共感を示さない。耳も貸さない。そういう意味で、勉強をサボりたい生徒にとっては大変居心地の悪い塾のはずだ。だからそういう気のある生徒はすぐに辞めてしまう。

 

もちろんたまたま小テストの準備ができていないなどは、その理由を聞き、正当な理由は聞き入れる。しかし生徒が「このくらいならサボっても大丈夫そうだな」なんて思って仕掛けてくる駆け引きには一切乗らない。初手から全部潰す。おそらく他の塾ではなかなかできないと思う。

 

成績不振で転塾してきた生徒などは、他所でそれが通用しちゃったからここでも同じことをやろうとする場合が多い。しかし私は転塾してきた生徒はやがてここも転塾していくと考えているので、それが早いか遅いかだけならば塾のポリシーを取る。ここは託児所ではなく学習塾だ。学習姿勢の悪い方へ合わせることはしない。だからそれで定着できた子は確実に成績が上がっている。


「昨日の自分」は今日につながっているか

空腹を満たすためだけに惰性でしてしまった食事のことはすぐに忘れてしまうが、「今までで一番美味かったラーメン」と言われると意外とすんなり出てくる。印象深いものは記憶に残るからだ。

 

それと同じで惰性で過ごしてしまった日はあとになって思い出すことはできない。思い起こせるのはせいぜい後悔の念くらいだろう。そこで問いたい。「君は昨日何をやった?」

 

これで昨日のこと、特に勉強のことを事細かに思い出せるなら素晴らしいことだ。きっと昨日を精一杯生きたのだと思う。全く何をやったのか思い出せないのならば、それは昨日が「無かった」のと同じだ。受験生は特に、これからますます1日が重要になってくる。後になって思い出せない日にならないように過ごしてもらいたい。


最後まで一緒に

高校生が塾で使っている単語帳がある。生徒が高校1年生の時に渡したものだ。だからもう2年以上使っていることになるのかな。

 

今でもそれを使って授業で暗記テストをやっているのだけれど、もうボロボロ。ほんとにきったねぇの。側面はちょっと黒ずんでて、ページを開くとちょっとその黒ずみが紙面の縁にまで侵食してる。

 

でもそれを見るとね、

 

「ああ、これだけ繰り返し使ってくれてるんだなぁ」

 

って思えるのね。

 

問題が生まれた意味は、その問題が誰かに解かれたりしてその人の血肉になる為だと思ってる。その単語帳はほんと幸せ者だよね。


そのままだと自分の夢想した未来はどんどん遠ざかる

他の生徒よりも勉強量が少なくて、小テストも準備不足で不合格。

現状成績も学力も合格ラインに達していない。

 

これで「偏差値の高いあの高校に行きたい」というのは、

 

「ちょっと無理じゃない?」

 

と思うんだよなぁ。私は先々のことを見通す力は無いけれど、これは結構当たるんじゃないかなと思っている。

 

だって勝てる要素が無いじゃない。自分には運があるってか?受験ってそんなに甘いものじゃないよ。今までそれで泣いた先輩たちたくさん見て来たよ。自分は「特別だ」なんて思わないほうがいい。


自分事として捉えられるか

断言できるが、「他責思考」の子供は伸びない。

 

自分がやらないことを誰かのせい何かのせいにしているうちは、結果が好転することなんてありえない。成績が悪いのは教え方が悪いからだ。自習室は眠くなるから行きたくない。自分の外に原因を探す生徒はそもそも成績優秀者とは同じ土俵に立ってすらいない。

 

成績の良い生徒は勉強を「自分のもの」と捉えて取り組んでいる。自分が主人公のストーリーを歩んでいる。困難にぶつかったら自分で乗り越えようとする。だから人から応援される。その結果他責思考の生徒よりも支持を集め、手厚いサポートを受けるようになる。誰でも一生懸命頑張っている人を応援したいのは当然だ。周りの人を自分のファンにできる人が成長を加速させていく。