それ、ほんとに「できない」の?

「できない」と言うことで、楽に流れようとしてはいけない。

 

ここ数日、生徒の「できない」に対して思うことがある。できないことがあるのは当たり前だしそれを教えるのが仕事だからいいのだけれど、「やりたくない」を「できない」に変換していると感じることがある。

 

小テストの準備。能力的に不合格になっているのではなく、明らかにやってきていない。だって再テストをすると合格できるのだもの。なのに理由を聞くと「頑張っているけれどできない」的な言い方をしてくる。「頑張っている」をそんなに安く使ってはいけない。

 

作文や記述問題を空欄で済まそうとすることに関してもそうだ。テストの時は、分からないなりに途中点をもらおうと何かしら書くよね。なのに授業で出たものに対して全くの白紙で持ってくるのは、能力的なもの以外の何かが見える。

 

これはいわゆる「負け癖」というやつじゃないのだろうか。

 

「あーもういいや、『できない』で」

 

と言っているように感じるよ。


こういうのってすばらしいよね

兄妹で通っている小学生の生徒。

 

たまたま私が席を外していて、入室したときに顔を合わせなかった。私が戻って来たときに、お兄ちゃんのほうが挨拶をしてくれたので挨拶を返した。

 

そのあと兄妹で小さい声で何か話している。「ん?なんだろう」と思っていたら、

 

「せんせいこんにちはー!」

 

と、妹ちゃんのほうからも挨拶が。きっとお兄ちゃんが「挨拶するんだよ」と教えていたんだね。ほっこり。

 

勉強だって大切だけれど、それ以上に大切なものがしっかり身に付いているなと感じた。


1学期中間テスト

今日は近隣の中学校の中間テストだった。塾生のできはどうだったかな。

 

テスト前の生徒の様子を見ていたところ、しっかり準備をしているなという感じの子がほとんどだった。ゴールデンウィーク期間もきちんと勉強していたのだろう、頼もしいね。しっかりテストで力を発揮していてほしい。

 

定期テストは学力を測定する側面ももちろんあるけれど、「自己管理力」を測る指標でもあると思う。準備をきちんとした子はその結果が表れ、そうでない子はそれが表れる。丁寧に、コツコツ自分の課題を進められる子にはちゃんと成果が付いてくる。真面目であるとか、ひたむきである・一生懸命であることが評価される世界だと思う。


こんな勉強は早く卒業しよう「幕ノ内ノート」

もう春も終わり梅雨に入ろうかという時期だけれど、春先で新しい環境に身を置いた生徒も多い。もくせい塾にもそんな子たちがいるので、勉強の「いろは」みたいなのを少しずつ書いていければと思っている。

 

最近気になったことを含めて「これはやめたほうがいいよ」ということ。まずは、「幕ノ内ノート」。

 

1つのノートに数学や英語などの勉強が混在して書かれているノートのこと。お弁当ならばいろいろなおかずが入っているのは嬉しいけれど、勉強でこれはよろしくない。そもそもノートを科目ごとに分けないのは、「『その程度の重要度』という認識」だからだ。自分の中で、重要なことをやっているという意識が希薄な勉強は当然身に付かない。

 

また情報が整理されていないノートは検索性が低く、後で「使えない」。どこに何が書いてあるのかすぐに見つけられれるようにしておけば、もしも勉強内容を忘れてしまってもすぐに確認できる。ごちゃごちゃだとそれはできない。それだと結局自分の頭の中身だけで勉強してかなくてはならなくなる。

 

ノートは空間を残して使うことで、後で新たな事柄を書き足したりできる。成長させることができるのだ。たとえ自分で問題を解いて丸付けしただけのノートであっても、何を間違えたのか、どの知識が足りなかったのかを書き足すことで、自分専用の教科書にもなる。だから幕ノ内ノートな勉強を止め、ノート術を磨いて学力につなげてほしい。


テストという言葉の持つ緊張感を

テストについて、たくさんあったほうが修正がききやすいと書いた。

 

良いこととして他にも、テスト回数が多いほうが「勉強の濃淡が減らせる」ということもあるかも知れない。テスト前だけ勉強する子って多いものね。テストが増えれば常に勉強している状態に持って行けるかも。(または、全く勉強しない状態になるか)

 

しかしここまで考えてみて、「小テスト」の役割ってこれだよなぁと思った。定期テストのような大きなテストが頻発できないから、小テストで継続して勉強してもらうってのが目的のひとつかな。

 

もっと言えば、普段から問題を解く時に「テストのつもり」で解いている子は毎日、全ての問題がテストとしての勉強になるんじゃないかしら。問題演習を「練習」のつもりで解いている子と「テスト」のつもりで解いている子、成果が変わりそうだよね。まさに「練習は試合のように、試合は練習のように」の勉強版だ。

 

塾で「問題演習」という言葉を全部「テスト」という言葉に置き換えてみようかな。


1学期中間テスト

もうすぐ中学生の中間テストだ。

 

近隣の中学校では、1学期に中間テストがある所と無い所がある。

 

どちらにも理由があって一長一短だっと思うけれど、1学期中間テストのあるところは、当然テスト範囲がかなり狭くなる。まだ新学期が始まって1ヵ月ちょっとだからね。授業がまだほとんど進められていないせいで、「前学年の内容」がテスト範囲に含まれていたり、中1の場合は小学校の内容がテスト範囲に含まれていたりすることもある。これで成績が付くとなると、定期テストの「学習内容の確認」という意味合いは果たせているのかちょっと疑問だったりするよね。

 

一方中間テストの無いところは、1学期の定期テストが期末テストの1発勝負になる。当然範囲も広くなるし、成績が付くという面では1発勝負はちょっと酷な気もする。そのせいか1学期の成績はやや甘めについている気もするけどね。どちらのほうがいいとかは分からないけれど、私はテストは多いほうがいいと思う。自分の力を確認するという意味合いでは、こまめに分かるほうが修正もしやすいからね。「いつの間にか悪くなっていた」ということが防げるかも知れない。もちろん学校は勉強だけが全てというわけでは無いのでテストばかり増やすわけにはいかないんだろうけれど。


その行動、惜しい!

授業で行っている英語のテストの再テストを受けに来たであろう子が、受けずに帰ってしまった。残念だねぇ。

 

たぶんだけれど、その理由は「教科書を持ってくるのを忘れたから」だと思う。以前も忘れて、私に一度注意を受けているからね。もう一度忘れて何か言われるのが嫌だったのかも知れないと推測している。

 

明らかに再テストを受けにきた素振りはあった。でも40分くらいでさっさと帰ってしまった。私は早々に「教科書忘れたな」と勘付いたけれど、その子がどう振舞うかを見ていた。

 

「気付いたならなぜこちらから働きかけて助けないのか」と言う意見もあるとは思うが、ここで手を差し伸べてしまうことで奪ってしまうものもあると思ったのだ。おそらくその子は自分の忘れ物のせいで計画が崩れたことを悔やみ、次は教科書を持ってくるだろう。そちらの成長に賭けたい。

 

ただ今回の最善手は、「忘れたことを正直に言って塾の教科書でテストを受ける」だったかなとも思っている。怒られる(注意程度で別に怒らんけど)のを覚悟して来たら、自分の計画も進められたのにね。そういうなりふり構わないくらいのずうずうしさも時には必要なので、身に付ける練習を私を使ってやっていってほしいよね。

 


結果を焦ってはいけない

他人の力を借りて勉強ですぐに結果を出そうとするのは危険だ。代償無しにそれはできない。いやこれは結果を出せない塾講師の言い訳じゃなくてね。

 

例えば植物をイメージしてほしい。根で吸い上げた水分や無機養分が茎を伝い、葉に届いてそこで光合成に使われる。光合成で出来た有機養分は体を作ったり生命活動に使われることになる。そうしてやっと花が咲く。

 

それを「すぐに花を咲かせて下さい」ということになれば、まず根を切り離し自然界にはない高濃度の栄養分に茎を直接浸す。葉は余計な養分を使ってしまうので邪魔だ、全部切り落とす。温度や照度管理された部屋で一番早く花が咲くように昼と夜を疑似的に感じさせる。そうすれば自然界にあるよりも早く花が咲くかも知れない。

 

しかし、その植物はその後すぐに死ぬ。

 

これを子供の勉強に置き換えてみようか。まずは毎日授業しましょう。大丈夫、そこで手取り足取り必ずできるようにさせますって。授業の無い時間もずっと教室で課題をやっていて下さい。勉強以外のことをするとせっかく覚えたことが抜けちゃうので部活動は辞めましょうか。他の習い事なんて絶対にダメですよ、そんなの時間の無駄無駄。あ、もちろん学校が終わったら直で塾に来てくださいね。夕食はお母さんがお弁当を後で届けてください。夜は遅くなるのでできれば送り迎えもよろしくお願いしますね。そうそうテストの3日前くらいからはもう学校も行かなくていいですよ、テスト範囲は終わっているはずですし風邪でももらったらどうするんですか。大丈夫、中学受験の現場でもよくあることですって。では、定期テストに向けて今から指導を始めますね。

 

え?「今の生活を維持したまま」成績を上げてほしいって?それは自然の中で他の花より早く咲かせてほしいって言っているようなものでしょう。それだとせいぜいちょっといい肥料を撒くくらいしかできませんって。他の子よりも成績良くしたいんでしょう?言われた通りにしてください。

 

ね。お子さんをどこまで差し出せますか?その子の成長曲線を無視することなんてできないよね。


暗記の技術を習得せよ

暗記力、何かを覚える技術は、早目に身に付けておいたほうがいい。「覚えないと付いていけない!」となった時には、すでに大量の「覚えるべき事柄」を通り過ぎちゃっているはずだから。

 

もくせい塾で本格的に始めるのは中1になってからだけれど、これをきちんとやらないまま中学生をある程度過ごしちゃって後で困る子って結構いるんだろうなぁって思う。他所から転塾して来た子って、だいたいここが弱い。だから中学生になって困らないように、中1の関門をしっかり用意して壁を乗り越えてもらわないといけないって思っている。

 

「暗記に頼らない学力を育てる」みたいなのも、結局は暗記した知識が必要になる。耳障りの良い言葉に騙されてはいけない。必要最低限の用語は身に付いていないと、考えることすらできないからね。


「置き勉」って学力も置いてきちゃわない?

春、この時期は生徒の「忘れ物」との戦いでもある。

 

生徒が塾に必要なもので持ってくるのを忘れやすいものの中に、「教科書」がある。学校の教材は特に持ってくるのを忘れがちだ。学校と塾とで使うカバンが違うと、中身を入れ替えたりもあまりしないよね。気持ちは分かる、でも使うから持って来てね。

 

で、それは別にいいのだけれど、先日忘れた子に話を聞いたら、

 

「学校で『置き勉』をしていて持ってくるのを忘れた。」

 

ということを言っていた。確か「『重い』教材を毎日持ち帰ると健康に被害が出る」とかで、今は学校に置き勉ができることになったんだよね。私から言わせると、「なんじゃそりゃ。じゃあ置き勉不可だった時代のわしらは全員骨格が歪んどんのかい」と感じなくもないが、そういう時代なのだろう。それで思うのは

 

「置き勉によって学習に影響が出ることについては誰も言わないのね」

 

ということだ。実際に置き勉が原因で教科書忘れが発生してるんですけど。これは早いところ教科書を全部電子化してもらわないと、この過渡期の子供たちの学力に影を落とすことにもなりかねないよ。みんなお家でどうやって勉強してんの?それともしてないの?


三内丸山遺跡

ゴールデンウィークに三内丸山遺跡を見て来た。やっぱり知識だけで知っているよりも、実際に自分の目で見たほうが勉強になる。生徒にもできるだけ生の情報を伝えたいからね。

 

住居はとても小さくて、入り口は腰をかがめてやっと入れるくらい。中の広さも2畳くらいじゃないかしら。かなり狭い。窓なんて当然ないから室内は昼間でも真っ暗。気を付けないと天井の梁に頭をぶつける。なるほどねぇ。

 

その他お墓が密集しているエリアや高床式の建物が建てられていたと思われる場所などを巡る。建物と建物の間隔はまちまちで、密集しているところもあれば1軒だけポツンとしているところも。その間をつなぐ道を歩いていると、なんだか縄文人になって集落で暮らしているかのような気持ちになれた。


教室再開!

ゴールデンウィークが明けた。

 

今日から塾も再開だ。連休中とは異なり、今日はちょっと雨が降ってしまっているけれど、連休にしっかり休めたのでまた頑張っていこうと思う。